杉山元治郎が洗礼を受けた明治36年という同じ年に、東北は福島県の浜通りの古邑相馬郡小高町という小さな商業の町に、キリスト教の教会が創立された。当時は耶蘇教講義所と呼ばれた。いまに残る教会の洗礼原簿の冒頭に記されているのは「鈴木ルイ」という氏名で、これは鈴木安蔵の母親の名である。隣のページに、見開きで仲良くならんで鈴木良雄という文字がある。これが、その夫すなわち安蔵の父親の名前で、その二年前の明治34年に彼等の長女の瑛が生まれ、七年後の明治37年に長男安蔵が生まれた。
我等の平和と繁栄の70年の礎となった日本国憲法の誕生の起源をどこに確定しようかと考えておた。どこからこの話を始めようか。
鈴木安蔵という人物の両親と、姉の瑛について語ろうと思う。
高校3年の時、文芸部の後輩に鈴木みどりという下級生がいて、知的でユニークな詩を書いた。小高の子で、明日干、彼女の家に遊びに訪れたことがある。
駅前通りに面した町なかほどの商家で鈴木という姓ではあるが、表の店には大きく「林薬局」という看板が掲げてあった。
ご両親は日中商売で店舗の仕事で忙しく、家の人として祖母の瑛さんがもてなしてくださった。瑛という難しい名前の文字を「てる」と読むことを初めて教えられて知った。
そのころの私は、政治向きには関心がなく文学の分野の話題に終始したのだと思う。
しかし、それでもこの家に生まれた鈴木安蔵という法学博士が、日本国憲法の草稿を書いた高名な学者であることは、すぐに理解した。小高生まれであることも、憲法学を作った人物であることも、岩波新書などを読み漁っていた時期のことなので、読書を通じて頭にあった。
瑛さんが俳句をたしなみ、句集を出していることが話題の中心になった。隣の原町の俳人たちはたいてい知っていたし、共通の知った名前の俳人の俳句について、文学の話ばかりだった。
しかし、大学進学で上京してからの神田の古本街歩きの収穫の中に、ある日、鈴木安蔵という名前に目が止まり、昭和8年の古い「憲法の歴史的研究」は購入しておくべき文献だろうなと思って、思い切った決断だったから貧乏学生には贅沢な金額の2000円か3000円だったろう。郷土の偉人、有名な先輩たちの出版物という「遺物」を、つとめて買ったなかの一冊であった。