小高伝道所80年史
小高伝道所

明治33年、原町講義所を設立し、初代牧師として秋保親穂氏が着任した。この頃既に小高町からも中村、原町の集会に出席して基督教を学んだ人々があったと思われる。この当時の日本の時代を一瞥すると、明治二十二年(一八八九年)には大日本帝国憲法が公布されて、一応「信教の自由」が憲法によって保証され、翌明治二十三年(一八九〇年)には第一回の衆議院議員選挙が行われて中島信行等九人の基督者候補が当選した。またY・M・C・Aが結成され、社会問題研究所や労働組合期成会の結成等富本の現状保革進の目が向けられ、日本社会民主党が結成されて近代日本の形成に新しい運動が展開された時代でもあった。
更に基督教界にも内村鑑三氏の一高等学校における「不敬事件」を口火として「国体とキリスト教」が論争され、国粋的な思想を持つ人々と対立抗争の烈しく成った時であった。このような時代に新しい思想を求めて教会に出入する進歩的な青年達私各地に起ったのは当然で相馬地方もその例外でなく、中村も原町も多くの青年連が教会の門をくぐったようである。
宣教師ノッス、巡回伝道者木村清松、その他の伝道講演も開催されて教勢は着々伸びていった、そしてこの年正式に小高講義所が設立されて引続いて梶原教師がこれを指導した。その年の教会員は新たに受洗した鈴木ルイ、石川佐吉、入江ハル、大曲ツル子、井上茂太郎、林与八、藤原書助、高橋孜、末永栄助等を加えて四十二名に達し、礼拝出席平均十五名、祈祷会出席平均六名であった。

小高講義所の設立当時
(明治三十六年(一九〇三年)-一明治四十二年(一九〇九年)

小高講義所が設立された明治三十六年(一九〇三年)の十二月に日本基督教会総裁片岡健吉氏が永眠し追悼祈祷会が行われた。同氏は基督者政治家で衆議院議員として国政に当り衆議院議長を努めた人で基督教界では重要な人材としてその死が悼まれた。
明治三十七年二月(一九〇四年)日曜学校を生徒三〇名、教師二名で開始し以来日曜学校は日と共に盛大になり多くの学童が宗教々育を受けることに成った。この年に小高を来訪して特別伝道集会を行ったのは平講義所牧師吉田菊太郎、中村講義所の斎藤壬生雄牧師、仙台の佐々木純一牧師、宮城女学政のファスト宣教師等であった。
また同年五月二十七日会員高橋きよ子が永眠し自宅に於て基督教式による葬儀を執行したがこれが小高町に於ける最初の基督教式葬儀であった。

成瀬高稿

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