小作問題への関心
大正六年四月のこと、警察が英語を教えてくれとか、何とかいいながら毎日訪ねてくるようになった。変わった事件でもあるのかと思っていたところ、沖野岩三郎氏からはがきが来た。今度教会の浪花中会が金沢市にあるので今朝日新聞募集の懸賞小説の原稿を投じ、金沢市に行くが、その足で宮城県塩釜港の植松材木店に寄り、帰りに貴兄のところに寄るかも知れぬと、それで警官の来訪がわかった。
杉山元治郎自伝「土地と自由」p47
沖野氏は幸徳秋水等のいわゆる大逆事件には関係はなかったが、教会員の中には大石緑亭氏の如きその他被疑者がいる。沖野氏は大要視察人と考えていた。
それで沖野氏旅行の報が伝わると、行き先き先きに名刹が廻り、水ももらさぬ警戒が行われた。はがきが着いてから、また例の警官がきたので、私の方から「沖野氏が来るというので警戒しているのだろう、来たら知らして君達の心配にならぬようにしてあげるから、毎日の訪問はよしてくれ給へ」というと頭をかいて恐縮している。それから暫くして仙台塩竈から〇日〇時の汽車で行くと通知がきた。しかしその日時は八沢浦干拓地の集会に行く時間なので、鹿島駅まで私は行って沖野氏の汽車を待ち合わせ、ホームから沖野氏に「ここで下車するのだ」と叫んで引き降ろした。そうすると尾行君もついて来て、私は小高駅までついてゆく命令は受けたが、こんなところで降りるとは聞いて来なかったと不服をいうので、君は尾行ではないか、沖野氏の後についてくればいいのだと一喝した。「上司の許可を得たいから暫くお待ち下さい」というので、我々は駅長室で一休みして四方山話をしていた。
鹿島町の巡査駐在所に行ったが、奥さんがお産でそんなことにかかわっておられぬといい、中村の本署に電話したところ、土曜日でもう署長が不在とのこと、やむなく尾行君は不承不承我々の行くところまでついて来なければならぬことになった。戦々恐々としていて、事務所で沖野氏の隣りの室に泊めてやるというと、社会主義者のためにどんなことをされるのかと一層心配そうなのである。ともかく鹿島駅から事務所のある海老江まで約一里の道を歩いて夕方到着した。
海岸一帯は大きな松林、その一角の小高い山に事務所が建っている。舌を見おろせば湖面と干拓された土地が見えまことに絶景である。今でこそこのように立派に完成しているが、干拓の当初はうまく水が抜けず、失敗に瀕したとき、事業主が杉山のところに相談に来たのである。それ以来杉山は毎土曜日ここに来て、農業上や移住民等の相談に応ずるほか、日曜日の礼拝を倉庫の二階の礼拝堂で持ったのである。そのための二十人あまりの信者が出来、シュネーダー博士より受洗したことは特筆すべきことで、沖野氏はこれらのことを「八沢浦物語」という一冊にまとめている。
だんだん干拓地が成功し、肥料がなくて収穫が普通田よりも多くとれると、事業主は地主根性を出し、搾取誅求をはじめた。それで私は農業上の相談もよい、人心開発のための伝道もよい、しかし昔から一将栄、万骨枯るの諺の通り、一地主が栄え、多く野小作人が苦難するのではいけない、多くの農民が繁栄し、喜ぶような解放運動が必要であると考えているとき、賀川豊彦氏が神戸で川崎造船所の争議を指導している新聞記事が出たので自分も賀川氏に相談する気持ちが起って来たのである。
それで大正九年十月、十一年間住みなれた小高をあとに……。