翌日は教会堂で小作人二百二十人の農作物品評会が開かれた。私は単に普通の品評会だと思って出席してみると、何ぞ知らん、それは如何にも不思議な品評会であった。
先づ第一に農民一同は起立して讃美歌を歌った。そして杉山牧師の祈祷に次いで、山田地主の訓示があり、そのつぎに私は市場の説教をした。恥ぢながら、恐れながら。杉山牧師は教壇の上から小作米審査の結果を詳細に報告して、一等から六等までの順序で賞品を授与した。賞品というのは汁椀だとか、茶碗だとか、皿だとかいう類の実用品であった。賞品の授与が終って県吏と郡吏とが奨励の辞を述べた。小作人の答辞のあるとき、私は日本にかような農場があるかと、眼前の事実を疑いたいようなかつ涙ぐましい感が湧いた。一同が讃美歌を歌って閉会した後で、折詰の配布をうけて、和気あいあいの中にも余興に移った。私は杉山牧師に導かれて、開墾地の大略を見た。怒涛澎湃たる水門も見た。三百五十町歩の大きな田園の中央に歯、三十町歩の大きな池があって、一艘の舟が浮んでいた。白い旗が建ててあるので近よって見ると福音丸と書いてあった。この湖水の南に長さ二百八十間の堤防がある。それは移住民堤と呼ぶので、最初移住してきた八十戸の農民が、山田氏の謝恩のため、老若男女が力を集めて築いたもので、橋のタモトに一基の記念碑が建てられてあった。
杉山元治郎、彼は農業と宗教との二専門学校を卒業して、しかして僅々一円五十銭の俸給に甘んじているが、彼の事業は実に偉大なものである。彼は今また羽二重工場を経営しようとしている。自転車の空気入を保持する器械を作って売りだしている。だから余り多く手を出しすぎるの弊はあるが、教会の牧師として,、彼くらい社会の人と接触した牧師は恐らく稀であらう。私は温厚で真実性に富んだ杉山元治郎と、熱烈にして篤学な賀川豊彦とを、日本の基督教界における新人として、推薦しえたことを喜ぶものである。
最早今後の宗教は殿堂内に閉籠もってはならない。口先の説教のみでは足りない。教義や進学をかれこれいうている時代ではない。他力であろうが、自力であろうが、そんな小さいことを争論している場合ではない。社会の民心をよく洞察して、その民心を如何にして導いていくのかということに専心力を傾注しなければ、何の益にも立たない宗教である。私は賀川、杉山氏をもって、現今の基督教界におけるもっとも進歩した新人であるということを憚らぬ者である。