ある時山田をはじめ従業員たちは海浜にねころび、頭痛鉢巻で成功難をかこっていた。するとその中の誰かがこんなことをいった。「物はためしということがある。あの古い隧道を浚っていようではないか」「一同は思わず声を合せてその説に同意した。古い隧道というのは前年この湖水の開拓を企てた人が、海に水うを導かんがために開さくしたものである。工夫を指揮して、海の方からトンネルを浚っているうちに意外なことを発見した。それはトンネルの中へ進むに従って高くなっていることであった。これは事業を請負った工夫が両方の口だけ測量通りにして、トンネルの中央を高くしておいたものか、あるいは工夫が故意にこの事業の成功を妨げたものか、それは不明であるが、とにかく水の入口と出口との測量から言えば水が海に出なければならないはずのトンネルが実際一滴の見ず三海に出なかった理由が知れた。
 一同驚異の心を躍らせながらトンネルの中央を平坦にすると同時に、開闢以来未だかつて動かなかった大湖の水面は、静かに動き始めた。

 翌朝早く山田は堤上にかけ登って、狂気の如く叫んだ。見れば一夜にして三百五十町歩の沃田が、忽然としてその眼下に現出している。ときすでに受付期に後れていたが、村々へ人を派遣して苗を買い集めた。そして湖沼一面に植付けたが、開闢以来溜りに溜っていた自然の肥料があって、その秋は四千俵の米が取れたのであった。
 驚いたのは山田ばかりではなかった。村民は昨年まで、地引網を引いて魚を捕っていた一大湖水が、俄に青々とした多に化しているのに驚き呆れた、
 伝え聞いた諸国から小作人が入込んで来た。山田は事務所の邸内へ教会堂を建てた。杉山は小高の町から毎週出かけて来て農業場の注意を与うると同時に宗教を説いた。ついに大正三年にいたって杉山は恩師東北学院長シュネーダー博士を招聘して三十三人の農民に洗礼を施してもらった。老博士は愛した生徒のこの意外の成功と奇蹟とに喜びの涙を浮べて感謝したとのことである。
 私が開墾地を訪問したのは一昨年の秋であった。私はこの太平洋沿岸の新殖民地を訪れ夜の十時ごろに出崎猪之助を訪問して、そこで説教会を開いたが、筋肉の逞しい荒くれ男が胡坐をかきながら、声を張り上げて讃美歌を歌った。私はもうこの光景自身が偉大な説教であると思った。

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