私は極端なる程熱狂的な賀川豊彦を紹介すると同時に、冷静温厚な新人杉山元治郎を紹介したい。賀川が関西の繁華な神戸の地にいるにひきかえて、杉山は東北の地磐城の片田舎に住んでいる。賀川が痩身短躯なると、杉山が六尺に近き長躯なると、杉山の熱烈にして激越なると、杉山が温容にして冷静なると、賀川の事業が凄愴悲惨なると、杉山の事業が平穏無事なるとの相違はあるが、その胸中にたくわえている教界新人の血には大した逕庭がない。
杉山元治郎は、泉州佐野の人である。彼は大阪府立農学校を卒業した後、和歌山県庁にはいって県農会の書記となった。しかし彼は基督信者たるの故をもって、同市の日本基督教会に出入するようになった。
そのころ私は、同教会の伝道をしていたが、丁度日露戦争の最中に、私は教会の青年達とともに、劇場で大芝居をした。そのとき杉山も一座に川割ったのであった。その後私が上京したあとで、加藤一夫、山の虎市、児玉充次郎という青年達が、非戦論の演説をして県会の問題にまでなったとき、杉山はついに県庁を辞さねばならぬようになった。彼は上京して私をたずねてきたが、ついに仙台に行って東北学院の神学部にはいった。
彼は神学部を卒業すると同時に牧師試験に及第して、同市の東六番町教会に招聘されたが、貧乏な教会で月給はわずかに七円であった。彼はこの教会でカユをすすりながら、出獄人保護事業のような感化的の事業をはじめようとして、幾多の不良の徒に、霊肉に多大の苦痛を負はされ、ついに栄養不良から肺をわずらうにいたったが、紀州の暖地に療養して強健になった。
のち福島県小高町の日本基督教会の牧師として招請されたが、月給は驚くなかれ、わずかに金一円五十銭なりであった。
一か月金一円五十銭の月給では彼一人の口を糊することもできない。しかも彼には扶養せねばならぬ義務がある。妻がある、弟妹がある、どうして生活をささえてゆくべきか。ここに彼の長所を発揮する機会はあたえられたのである。
小高教会という基督教会をたずねていったものは、教会の看板とともに、いろんな看板がごたごたとかけられてあるのに一驚を喫するであろう。
彼は農学校出身の知識を利用して教会内で農作物の種子を取次販売する。農具を売る。ことに彼の工夫になった「杉山式互用犂」というのは非常な好評を農民間に博している。鋸屑を利用して作った練炭を売り、自転車のタイヤ、チューブの修繕器の専売特許をえて売り出す。肥料の取次販売もする。可成りの農園も借りて経営している。瓦カマドをもって瓦をもやいて売り出す。
入口の右には大きな焼いものかまがあって、冬になれば牧師夫人はこの所で毎晩焼いもを売る。左側には瀬戸物が並べてあって、村から馬を追うて来た女達が、毎日何十組となく店先で瀬戸物を買っている。牧師夫妻は喜々として彼等を相手に商売をしている。
彼は近在の村々を巡回して、小学校の青年達を集め、土壌学や肥料学の巡回講義を続けているので、彼の家には常に百姓男が上り框に腰をかけて、肥料や種物の相談をしている。そして彼を知恵袋として種々のことを尋ね聞く。彼は一々懇切に説明してやるのである。彼は毎日曜日に、日曜学校の児童を教え、大人に説教をする、朝フロックコートで説教していたかと思えば、午後は荷車を引張って町を通る。付近の人は彼を活きた農業辞典として重宝している。
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