祖父潤周のことですが、結婚するまで私は20年一緒に暮らした訳ですが、その人となりについては語ることが出来ても、若き日、どんな思いで、何をしたものか知人、親類の者から断片的に聞いたことぐらいしか聞いておらず、それが今となっては大変残念なことをしたと後悔しております。祖父は明治二十六年九月二十三日生、1976年83歳でしたので、逆算したのですが、双葉郡浪江町川添の正西寺の二男として生まれました。当時のお寺は貧しかったと思われますが、相馬中学から福島師範に進み、小学校の教師でした。祖父の性格からして、また生き方から察し、およそ出世という野望など もなかったと思われます。
浄土真宗の御寺で生まれたものの、どうやらキリスト教への傾倒もあったらしく、小高教会の信者さん達との集合写真もあり、杉山元治郎氏(牧師・国会議員)との交流もあり、小高町に初めて賀川豊彦氏を呼んだのも祖父だったと親戚の人から聞いたことがあります。小高町の岡田通りというバス停の所に軍艦屋と呼ばれた須江さん宅があり、そこが救世軍か、少年少女たちのいわゆる日曜学校か拠点になっていたらしいです。
軍艦屋とは、私も見ておりますが、黒い屋根の形が軍艦に似ているからなそうです。(佐々木千代先生の話から)なる程と思います。
夏休みなどは少年少女達と海水浴に連れて行くなど、(林間学校のようなものでしょうか)していた為、祖母は、よその子は連れて行っても家の子は行かないと、グチの様なことを聞いたことがありました。
祖母のことにふれますと、原町飛行場の兵隊さんからおせわした時のお礼のハガキ、手紙が数通、お仏壇の引き出しの中に入ってました。
どれも感謝の言葉がつづられてました。
殉職された兵士の慰霊碑も小さい頃、きのこ採りに行きがてら連れて行かれたことがあり、こんな近くにも戦争遺産がありました。
食糧難の時代、家に泊めて精一杯のもてなしをしたことが手紙の内容から察せられました。写真も見たことあり。
そうそう、今思い出しましたが、慰霊碑に連れて行かれた時の祖父の話。殉職した兵士の足がちぎれてあっちの方向に飛んでいた等と説明していたので、きっと現場に立ち合っていたのでしょう。
又、順序が逆戻りいたしますが、祖父潤周は小高町の二本松家に養子に入りました。二本松イシと結婚。その長女、ゆきが大正五年生まれなので、大正四年頃結婚か。福島師範学校時代の写真を見ますと、孫の私から言うのも変ですが今でいうかなりのイケメン。日本画家、原町高校にもいらしたことがある藤田魁山先生の話によりますと、祖父は音楽にも憧憬があり音楽室で祖父がダニューブ川の漣をオルガンで弾きうたったりとそんな思い出話、後年聞きました。
教え子のおひとりは、物語をよくしてくれて、印象に残るのは「ああ無常」だったこと。転勤もあちこちあったことでしょうが、浪江の、室原まで自転車で通勤していたこともあったとか。
そのほか小高町の塚原分校も。
貧しい時代で、石盤に書くのはチョークではなく、裏の岩山の磐を拾って来て書かせたことなど。それでも児童は貧しいながら今より心はずっと豊かではなかったかと私は思ってます。少なくともいじめで自殺などは考えられなかったでしょう。
これは祖父の弟、小丸俊雄氏から聞いた話ですが、祖父は常に弱者、貧しい人に寄り添う生き方をしたのかと思うふしがありました。ある時、潤周がいなくなり、捜しあてると貧民窟でそこの人々と下駄の鼻緒をすげていたということです。どういう理由だったのかもはや知るすべはありませんが、貧しい人々を見て見ぬふりはできなかったのでしょう。何か行動せずにはいられなかったのでしょう。祖父には一度も叱られたこともなく、呼び捨てにされたこともなく、いつも恵子ちゃんと必ずちゃんづけで、優しく温厚。自分はボロをまとっていても、被災者にはオーバーコートを送ったりと。もっと深く知りたいと思う人でした。
曾祖父眞身はイシの父で小高小学校の校長室の金庫に寄贈者の名前二本松眞身と書かれてあり、校長室掃除に行くとよく「おじいさんか」(ほんとはひいおじいさん)とか聞かれたものです。
とりとめもなく脱線したり断片的だったりときっとあまり参考にならないと思いますがお許し下さい。

青田恵子 大津市

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