杉山元治郎と労農運動
森健一 —土に生き基督者となる 東北学院への道程—
杉山元冶郎は明治十八(一八八五)年十一月十八日、大阪府泉南郡北中通村下瓦屋に政七を父とし、具満(くま)を母として生まれた。北中通村は大阪湾にそった半農半漁の一寒村であったが、生家は地引き網の網元の他に銭湯屋を営業し、更に精米業など、農業の他にも手広く仕事を行っていた。
明治二十七・八(一八九五・六)年、日清戦争の頃、隣村の鶴原部落にある北中通村立鶴原尋常小学校に入学、佐野町の尋常高等小学校に通学していた頃、家運が傾きかけ家の手伝いをするようになった。家の畑でできた野菜類を佐野町の八百屋に持って行き、学校の帰りに代金と籠を貰って帰る。途中、巡査の子に「土ん百姓、今日は何程もうけたか」と悔られ、怒って天秤俸で殴ることもあったほど、少年時代は貧乏の苦しさに耐えながら働いていた。
しかし家はますます貧窮の度を深めたため、明治三十三(一九〇一)年四月、学資を大阪府から補助してもらうことができるという理由から、つまり学資のかからぬ学校を選ばなければならないということで、大阪府立農学校に入学した、当時農学校は全員寄宿舎生活で午前六時起床。入学した翌日から水田に入り、重い鍬を用いて湿田の除草の初実習をさせられるほど実習教育に重点をおくスパルタ教育であった。午前中は学課、午後は実習の連続であり、泥田の除草や茶摘みからハムの製造、麦酒の醸造など肉体的にもきつい作業を身体で覚えていった。彼はこのような厳しい生活環境のなかで、農業の実際的な知識と技術をみっちり叩き込まれてゆく。しかも実習主任の布施常松から強い精神的な感化を受け、とりわけ神について知らされ、キリスト教信仰に入る下地を与えられた。
いずれにしても後年、杉山元治郎が農民運動家として大きな足跡を残したのは、彼のこのような出生と少年時代の貧しさと厳しい生き方によるところが大きかったといえよう。
明治三十六(一九〇三)年三月、大阪府立農学校を卒業し、十月、和歌山県農会技手となるが、この府立農学校時代に皆田篤牧師により受洗している。
その間の事情について自叙伝『土と自由のために』(十八頁)によると、ある日曜日、鳥ノ内の町内を歩いていると基督教会があり、「好奇心にかられて一寸入り口からのぞいて見た」ことから「日曜日毎に誰からすすめられたのでもないが、足は教会堂のある方に進み、入口の座席に忍び込み、そっと説教を聞いた」という。
そうしているうちに明治三十五(一九〇三)年の秋、当時特に親切に
中略
ている。」
牧師はアメリカ帰りの滝本幸吉郎であった。
当時、教会には河野を中心として、三十人近い青年が集まっていたが、たまたま日露戦争のさ中で、杉山の言う「非戦論騒ぎ」があった。『明治学院百年史』の「第四章、第六節、卒業生の社会活動」のなかに、「紀州グループの人々」として次のような記事が残っている。日露戦争に際して、和歌山県の一角で非戦論を叫んだキリスト者青年グループがあった、河野岩三郎を中心とする児玉充次郎、杉山一兀治郎、山野虎市たちの紀州グループがそれである、かれらは伝道者の道を上山して、杉山は東北学院、その他は明治学院の各神学部に進学した口河野、山野、児玉はいずれも明治四十年六月に神学部別科を卒業した。河野は卒業後、紀州新宮教会に赴任した、ここで、かねて明治三十九年二九〇六一の夏期伝道の際に出会った大石誠之助との親交がつづいた。いうまでもなく、この大石は、いわゆる大逆事件に連座して処刑されたドクトル。大石である(略 )
明治三十七年(一九〇四)十一月十四日、山野はいわゆる『真紅』事件により、戦争反対運動の尖鋭分子として、教会から除名された。『杉山元治郎自伝』(二十二頁)では、この『真紅』事件がもう少し詳しく書かれている。
そのうちに加藤一夫は和歌山中学生を相手に同人文芸雑誌『真紅」を発行する計画を立て、私にその発行人になることを依頼されたので引受けた。幸いに三号雑誌に終わらずに順調に発展したので、あるとき、和歌山城内の葵倶楽部で祝賀演説会を開いた。当時私達の仲間には平民新聞の愛読者が多く、人道主義的、キリスト教的社会主義の非戦論者がいたので、日露戦争の最中であるにかかわらず、出る弁士も出る弁士も非戦論を唱えた。翌日の和歌山新報が「和歌山市に露探現る」と大見出しで、中学生相手の雑誌真紅の幹部は非戦論を説く露探だ」と報告したので、和歌山市内は上を下への大騒ぎ、ちょうど開かれていた県議会の問題になり、雑誌はすぐさま発行停止、生徒達はそれぞれの処分を受けて私達の仕事も泡の如く消えてしまった。
この事件によって沖野を中心にした山野、児玉、加藤等は明治学院神学部へ、そして杉山だけが仙台の東北学院神学部に入る道を選んだ。なおこの間、杉山は在学中から和歌山時代にかけて、内村鑑三の影響を受けたことも無視することができない。彼に大きい影響を与えた布施常松は、内村の信奉者であり、特に杉山は万朝報を愛読、内村の論文を研究課題とし、内村の主宰した「聖書之研究」は熟読していたという。内村が日露戦争に対して、平和主義や非戦論を唱えたことが、和歌山の青年をめぐる『真紅」事件の思想的背景となったことも容易に想像される。また農業こそ宗教的であり、無から有を生ずる神に次ぐ業務であるとする内村の「宗教と農業」と題するバンフレットにより、農業を愛し、農民の味方になる決意を固めたと言われ、のちに農民福音学校運動を起こす原動力となった。
杉山が東北学院神学部に入る決心をして仙台に着いたのは、明治三十八(一九〇八)年九月一日であった。
しかし、当時の専門学校は九月が新学期であると思い、杉山が仙台に着いて南町通りの東北学院を訪ねると、四月が新学期のため入学することは許されず、頼りにしてきた労働会も生徒でなければ入会も許されず、途方にくれざるを得なかった。
そこで、東七番丁のある下宿屋に身を寄せ、友人の送金により翌年の四月まで生活を統けたという。杉山は当時、昼なお暗い孝勝寺の森の中でひたすら祈った。
「私の欲望ばかりではありません。神の国の拡張を考え、その準備のため仙台に参りました。聖書に神の国とその義(ただ)しきを求める者には必要なものをみな与えられると約束せられているが、私は飢えていま死なんとしております。しかし私は神の約束を信じます。たとえ餓死するとも仙台で頑張りましょう」(『杉山元治郎伝』二十四頁)と記している。
ところで当時東北学院の神学部別科は、相当の年配者やすでに妻子をもつ学生など多彩な人物が揃っていたため、生え抜きの普通科出身の学生からは疎んぜられがちであった。
在学中の杉山は、学業の面のみならず人格形成の面でも、深い感化をシュネーダー院長から受けた。礼拝、勉学そして労働と、ほとんど休む暇もなかったなかで、入学した年の夏に杉山は無銭伝道旅行のために富士登山を行い、明治四十一(一九〇八)年夏には仙台から和歌山へ四十五日間の伝道旅行、秋には盛岡を振り出しに東北六県を伝道旅行している。翌年には救世軍ブース大将の来仙を機に、親しくその風貌に接し神に仕える決意を新たにした。また旧師布施常松よりメキシコにくるよう勧誘の手紙が来るが、シュネーダー院長からメキシコよりも日本にあって伝道するよう諭されている。
明治四十一(一九〇八)年二月から級友四名とともに街頭伝道のため「グロッス協会」をつくり、その責任者となって機関誌『グロッス』も発行。毎土曜日に寒い冬のときでも東一番丁の当時の藤崎呉服店の前で路傍説教をつづけ、東北冷害救援活動に身を投ずるなど、すでに学生時代から社会救済活動に意欲を燃やしていた。
このように杉山は東北学院に学ぶことにより、シュネーダー院長をはじめ、多くのよき師からキリスト者として生きる道を見出し、ブース大将によって決意を新たにしたが、他方では無銭伝道や路傍説教によってたくましい実行力の持ち主となり、後の農村伝道や労農運動への強靱な力が養成され、その後の人生の健を築いていた。
二 苦難の農村伝道から農民組合の設立-賀川豊彦との出逢い–
しかし、杉山は栄養不良と過労のため肺を侵され、十一月には仙台を去ることになり、大阪島ノ内病院に入院した。医師からは六カ月の生命と宣告されたが、精神力により快方に転じ、翌年から紀州白浜で療養生活を送っている。
明治四十三(一九一〇)年七月、シュネーダー院長の要請により、福島県相馬郡小高町の日本基督教会牧師となる。大正九(一九二〇)年十月まで、信者も少なく経済的にも恵まれてはいなかったが、あえて自給伝道の道を、選んだ。そこで「種苗取次販売」、農具一式取次販売」「多木製肥取次販売」「屋根瓦製造販売」「相馬焼陶磁器取次販売」と多くの看板を掲げ、更に「杉山式瓦用鋤」や「杉山式自転車修繕器」まで売り出した。
また、家族を呼んで水田二反、畑一町を借りて葡萄、桃、リンゴ、柿などの果実のほかに野菜を作り、初めて玉葱とキャベツを大阪から持ち込み小高で栽培すると同時に、豚や鶏も飼ったという。
とにかく相馬焼を背負って大阪まで行って売り、帰りにはゴム足袋や靴下止めなども仕入れてくる。一方教会の入り口では、夫人が焼き芋釜を据えて焼き芋を売るという生活であった。
まさに八面六腎の仕事ぶり、彼自ら荷車を引いて町や村を行商し、雨の日も風の日も町中を売り歩くなど、生活のために血のにじむような奮闘を続けた。しかも、生活を通して農民と接することで、いつしか農民の気軽な相談相手となり、具体的な農作業についての適切な指導を与えるよき農業技術者になっていた。
反面、小高教会においては、教勢の発展はほとんどなかった。杉山が赴任した平明治四十三年(一九一〇)の在住会員数は十二名で、礼拝や祈祷会への出席者は七名か八名ほどであった。そして教会堂が建てられた翌年、それは杉山が小高を去る前年であるが、小高教会の教勢最も盛んな年でさえ在住会員数は二十一名、礼拝や祈祷会への出席者は十二名でしかなかった。
結局、杉山の十一年間にわたる小高教会の牧師生活のなかで受洗者は男七名、女三名、その中に彼の家族が五名含まれており、いかに農村伝道が困難であったかを示している。そのことは彼のノート『農村伝道に対して』において「農村に於ける迷信と戦うには如何にすべきか」を説き、「農村伝道に関する注意」に「農村事情を知ること、特に農民心理を知ること」を強く訴える根拠となり、それが「農村伝道の理論と実際』にあって、冒頭の「『一人の霊魂が全世界の富よりも貴い』と仰せられたイエスの精神よりすれば、人間の居る処、其ノ霊魂を救うために伝道の必要があるのである。故に是は都会伝道は、農村伝道或いは漁村伝道と区別すべき理由はない。霊魂のある所、殊にイエスの教えの行届いて居らない所には時を得るも、時を得ざるも熱心に伝道せねばならんのである」と農村伝道の必要性を説かせた素因ともなった。
このような苦しい農村伝道という逆境のなかで、彼は小高教会の外、大みか村、幾世橋町、飯崎原八沢浦干拓地まで伝道の輪を拡げていき、とりわけ自ら開拓した八沢浦干拓地においては、毎土曜日、農業上や移住民等の相談に応じ、また倉庫の二階を礼拝堂にして日曜日の礼拝を行う彼の真撃な姿にうたれて三十三人が信徒となり、恩師シュネーダー院長より洗礼を施してもらった。老院長は、愛した生徒のこの意外な成功と奇跡とに涙を浮かべて感動したとのことであった(沖野岩三郎「八沢捕物語』)。
その間、ホルマン著旧国民高等学校と農民文明』の訳書を読むことによって、大正二(一九二二)年二月に「神を愛し隣人を愛し、土を愛する精神をもって死を克服する奉仕者をつくる」ことを決意するとともに、農民高等を愛し隣人を愛し、土を愛する精神をもって死を克服する奉仕者をつくる」ことを決意するとともに、農民高等学校を開校し、農村伝道の出発点を創った。
なお、この当時日刊誌『農業と宗教』を発刊、また「小高文芸会」を結成している。その目的は小作人の苦難を除き、農村の窮乏を救うにしても、農村を立派な文化の香り高いところにするにしても、その根源は人間であると考え、農業開発により田を作るには人を作ることが先決条件と教育事業の重要性を認識したからに他ならない。
大正七(一九一八)年小高教会の会堂建設を思い立ち、建設資金の募集にとりかかったが、青年実業家の寄付や農村青年の無料奉仕によリ完成した。しかもその間、『農村経営の理想』『農家経営の実際』『農家経営実地応用五用論』など農業経営に関する著書を精力的に出版している。
ところでキリスト教の牧師として農民とともに生き、農業技術の教育者でもあった杉山元治郎が、本格的な労農運動の指導者として社会問題に身を投じたのは、賀川豊彦との出逢いにある。
大正の初めごろから農村問題が議論されるようになったが、大正七年に物価は急速に高騰し、労働争議の波が高まり、七月には富山県の女房一揆、つまリ米騒動が全国を席巻した。
同年十一月、河野岩三郎が、雑誌『雄弁』に「日本基督教会の新人と其事業」を発表した。沖野岩三郎は同論文において、明治の初年から諸種の障害と苦闘しつつ、世界主義の宣伝に力を尽くした基督教会の新人、新島嚢、植村正久、押川方義等をあげたうえで、「私はいまここに現今の日本における牧師中、最も社会と密接の関係にある事業をなしつつある二人の新人を紹介しうることを栄光とする。」それは「極端なるほど熱狂な賀川豊彦を紹介すると同時に、冷静温厚な新人杉山元治郎を綿介したい。」として、生きた農業辞典、農民とともに生きる杉山牧師を次のように記している。
教会の牧師として、彼くらい社会の人と接触した牧師はおそらく稀であろう。私は温厚で誠実性に富んだ杉山元治郎と、熱烈にして篤学な賀川豊彦とを日本の基督教界における新人として推薦しえたことを喜ぷものである。
最早、今後の宗教は殿堂内に閉篭もってはならない。口先の説教のみでは足りない。教養や神学をかれこれというている時代ではない。他力であろうが自力であろうが、そんな小さいことを争論している場合ではない。社会の民心をよく洞察して、その民心を如何にして導いていくのか、ということに専心力を傾注しなければ、何の益にも立たない宗教である。私は賀川、杉山二氏をもって、現今の基督教界におけるもっとも進歩した新人であるということをはばからぬ者である。
杉山がいよいよ社会運動に身を投じようとして小高の地を去ったのは、大正九8一九二〇)年十月四日であった。杉山は郷里大阪に行き、神戸市葺合の貧民窟に賀川豊彦を訪ねた。そのとき賀川は「労働運動はわしがやる。君には一つやって貰いたいことがある。それは農民組合運動だ。しかし時期がちょっと早い。しばらくの間待っていてくれたまえ。いずれそのうちに通知する」(『杉山元治郎伝』一五七頁)と語ったというが、ここに杉山の農民組合運動への第一歩をみることができよう。杉山は大阪市の弘済会育児部の舎監兼農園指導者として午前中は働き、午後から夜にかけては大原社会問題研究所員の一人として、大日本労働総同盟の成立をみた労働運動や社会事業について研究を深めた。
大正十(一九二一)年、労働者解放の論理と倫理を高唱した賀川からの手紙により、農民組合の発足を期したが、杉山の勤務の都合により、翌年四月、弘済会を退職するまで待たざるを得なかった。しかし農民組合の設立は、新聞記事にも大きく取り上げられ、協力者も続出してきたのである。
その間の事情を「日本労働組合物語』(大正編)大河内一男、松尾洋共著、筑摩書房、昭和四十年)第五章の「水平社と日農」は、次のように語っている。
大正十年の秋ごろ、神戸で総同盟を指導した賀川豊彦、福島県下でキリスト教の伝道にしたがっていた杉山元治郎が、農民組合の結成について相談し、大阪毎日新聞記者村島婦之がこれを紙上に取り上げたことかち、急速に話はまとまっていった。神戸の賀川宅には日本農民組合創立本部がおかれ、十一年一月には、雑誌「土地と自由』が創刊された。日農創立発起人は、東北、関東、関西から、中国、四国におよび、前川正一、広岡八十一、難波孝夫ら一生を農民運動にささげた人々が名を運ねていた。
大正十一年四月九日、神戸のキリスト教青年会館講堂に百二十余人の農民代表を集め、日本農民組合が産声をあげた。賀川、杉山の開会の挨拶につづいて、総同盟神戸連合会柴田宮太郎、おなじく関西労働総同盟会藤岡文六、総同盟鈴木(茂三郎)会長らの祝辞が述べられた。大会は、組合長に杉山元治郎、理事に賀川豊彦らの十人を選ぴ、
綱領
一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を函養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す二、われらは、相互扶助の力により相信じ相寄り、農村生活力向上を期す
三、われら農民は穏健着実、合理合法なる方法をもって、共同の理想に到達せんことを期す
をはじめ、宣言、主張を決議した。
宣言・主張の目的は、「農は国の基であり、農民は国の宝である」という視点に立ち、「農民組合の目的は農村を立派にし、農村に働いている自作と小作の方々が安心して仕事に従事することのできるようにすること」であるから「吾等の目覚める時がきた。吾等は長き眠より覚めて真の生命に生きる春に会した。吾等の団結はこの春の悦びを長くつづけるためである」と小作人に呼ぴかけたのである。
大正十一(一九二二)年一月、日本農民組合機関誌『土地と自由』を創刊した(正式に機関誌となったのは、この四月の結成大会以降)。
以下の『土地と自由』の創刊号における巻頭言の部分をみても、杉山は社会主義的革命思想によってではなくキリスト教的人道主義の立場から、むしろ協調主義的立場による農民の解放を期待していた。
地主を苦しめ、地主を倒せば小作人が良くなると思ふは大きな誤りである。地主あって小作あり、小作あって地主あるのである。互いに協調し、相互扶助せねばならぬ。然るに農業労働者の実際生活を見るに「米作り米食はず」とは何と言ふ悲惨なる矛盾であろう。土地を耕し、肥料を与へ、額に汗して作りたる米の大部分は地主に収め、下等米や砕米合して僅か数か月の食料を支へるに足り得ないとは此処に何等の欠陥と間違がないでなかろうか?(略)
我々は先にも言える如く地主あって小作あり、小作あって地主あるのである。即ち、地主と小作はできるだけ理解の下に協調一致して自家の福利を増進すると共に、国家のために生産の増加と安定を期さねばならぬ。
而してここに農民文明は建設され、国家は益々健全になるものである。我々は斯の如く農民の福利と国家の健全なる発達を期する為、全国的に日本農民組合を設立したのである。
三 動揺する労農運動と農民福音学校-半農半伝道の師としてー
吉野作造が「憲法をもってする政治」を説き、大正デモクラシー(民本主義)が一世を風靡しているときロシア革命は労働者に「生きる光明を与え」、社会主義者を勇気づけ、富山の女房一揆(米騒動)は庶民の目を開かせることとなった。こうした社会的背景の下に鈴木文治を中心とする友愛会は、日本労働総同盟へと発展し、総同盟を中心として労働争議が激発、労働運動も次第に再生の道を歩んでいた。
一方、大正九(一九二〇)年の恐慌に引き続く不況、凶作、米価の下落によって農民の生活も窮迫し、小作争議が激化していた。その意味では農民組合の生誕は、長い間屈辱と忍従の生活を強いられていた農民の闘争意欲に大きな役割を果たす。しかもこれまでの暴動化する無組織の農民運動が、組織による運動へと転換を導き出す役割をも具備していたといえよう。
当時、杉山は「全国の稲作地帯の地主が小作料を収奪するという放火により小作人を苦しめていることを警戒せよ、防火に努めよ」と半鐘を叩き、全国の村々に行くことを約束し、小作人を訪ね、麦飯、自家製茶を飲みながら改良を語り激励し歩いていた。それは当時の帝国大学で勉強し、机上の理論で社会主義を演説するという観念的なものではなく、土に生きる貧しい生活の中から生まれた姿であった。
かくて、大阪府、兵庫県から全国にまで農民組合結成の運動を展開し、数年にして三百組合、組合員は七万人を越えた。その意味では日本農民組合の生誕こそ、わが国の労農運動が近代的性格をもった組織として活動し始めた出発点と見ることができよう。
事実農民運動は、最初の本格的展開を日本農民組合の力によって発揮することができた。小作料の引き下げ要求を中心として、全国各地に小作争議が発生してきた。その嵐の中で農民は競って争議の解決と指導を日本農民組合に求め、杉山らは連日連夜東奔西走し、文字通り席の温まる暇もなく、争議の応援、日本農民組合支部の結成に全力を尽した。その結果、長く支配力を誇っていた地主側の後退と、牛歩のごとき歩みではあったが、小作人側の前進をみたのである。
しかしながら、以上のような目的と運動の方向性をもって生まれた新しい良民組合に対しても、世間の目は冷たく、農民組合は一時の流行でしかないとするなど多くの正鵠を欠く噂が流れた。このような世間の風潮に対して杉山元治郎は、次のような反論をもって対峙した。
昔ユダヤに於てイエスの教が勃興して来た時に、時の司祭者達は圧迫し、絶滅しやうと協議したのである。処がガマリエルと云う大学者は「人々よ其のように心配することはない。彼等のするが儘に任せよ、流行ならば消える。野心家の仕事ならば倒れる。但し其の計画が神より出て、真理に根ざしているならぱ如何に圧迫しても栄える」と叫んで無益なる迫害沙汰を止めしめた。私は農民運動に対し「一時の流行」だと云う人にガマリエルの言葉を以て御答へしたいのである。農民組合は生れて四年、年一年と発達していることを思はば一時の流行でないことが悟られやう。農民組合は永い間虐けられた農民の生命が今や伸ぴやうとする運動である。真理に根ざす、生命に即したる運動である。非常に伝播力のあるのはむしろ当然のことである。
杉山が更に大きな苦汁として味わわねばならなかったのは、内部からの批判であった。発足した日本農民組合が運動を展開し、小作争議の指導にそれなりの役割を果たしているとき、無産政党の左翼分子が杉山を”ヤソ坊主”「日和見主義者」と非難や批判を浴びせ始めた事である。
このような世間の、そして内部からの攻撃を受けつつあるとき、杉山は大正十一(一九二二)年、農民を農村改良の主体とすべく第一回巡回農民学校を開校、次のような挨拶を行った。
名は養学校であるが学校らしいものは何もありません。机は皆さんの食卓を借集めたものであり、教場はお寺です。学校でない寺子屋です。教育は校舎でありません。設備でありません。教師と生徒の人格の接触です。其で昔寺子屋からも偉人が出ました。少なくとも農学校は此の意気と精神を以て居ります。恐らく日本に於いて将来農民組合運動史を書かるる時、此の第一回農学校がお寺に開校したと云うことは、其の一頁を占るに違いない。農民学校は日本の農村に一時期を画したものである。我々は真に大正維新を形づくらねぱならぬ。
更に杉山組合長は「獅子飢ゆ吼えざるを得んや、人躓きて誰か心熱せざらんや」と小作人の窮状を告げ、小作人を救ふべきを訴える(『土地と自由』九号、大正十一年九月二十五日)。
この「頭よりも人間そのもの」を作り、「知識も教えるが、それを実地に応用する手足のうごく人間を作ること」をねらいとして、「教師と生徒との人格の接触」を重要視し「四六時中座一切が教育」と考えた杉山の教育への情熱こそが後日、農民福音学校運動による農村伝道へと受け継がれていったとみることができる。驚くべきことに、この時期に一年間、受験書を読み、歯科医の検定試験の学術試験に合格、二年半かかって実地試験にも合格、大正十二(一九二三)年に歯科医師として登録されることとなった。それも、生活の基盤を得て農民開放運動に専心するためであったという。
さて農民組合の活動は文化的活動を含む幅広いものであったが、当時の最も重要な闘争目的は小作料の軽減である。それまでは地主に対して傷害事件を起こすこともあったが、良民組合の設立により、前述のようにようやく組織的になり、農民の意識も進み争議戦術も変わってきた。しかし小作料減免の闘いも地主と政府の攻勢、とりわけ治安維持法により弾圧され、次第に困難な道を歩むようになる。
日本農民組合にとって不幸なことは、政治との関わりから内部対立・分裂を繰り返すことにもあった。日本労働総同盟から左翼の日本労働組合評議会が分裂したことに始まり、無産政党の樹立が日本農民組合の根幹を揺るがさざるを得なくし、左右の激突、脱落のなかで、大正十四(一九二五)年十二月一日に農民労働党を結成するが、これは政府によって即日解散を命じられた。
翌十五(一九二六)年三月五日、左翼各団体を加えないで労働農民党が、わが国最初の無産政党として大阪キリスト教青年会館で設立大会を行い、中央執行委員長に杉山元治郎が選出された。三輪寿壮書記長、安部磯雄、西尾末広、賀川豊彦、麻生久、三宅正一などが執行部であったことからも、穏健な社会民主主義を基調として次のような綱領を発表した。
綱領
一、われらは、わが国の国情に即し、無産階級の政治的、経済的、社会的開放の実現を期す
二、われらは、合法的手段により、不公正なる土地、生産、分配に関する制憤の改革を期す
三、われらは、特権階級のみの利害を代表する既成政党を打破し、議会の徹底的改造を期す
つまり普通選挙の実施と共に無産階級の政治的台頭があっても、農民の代表者が一人もいない。したがって農民が政治的な力をもつことにより、無産者によりよき制度を設けるため、全国的単一無産政党の提唱を行ったといえよう。
しかし、平野力三らは「農民は農民党へ」のスローガンをかかげて、日本農民党を結成し、ここに日本農民組合の第一次分裂が行われた。他方、労働農民党の左翼分子が潜入し、次第に全面的な進出をみた。また安部磯椎を党首とする社会民衆党が結成され、右翼的傾向を明らかにしたため、麻生久ら中間派は日本労農党を結成しわこの去つな外圧と激しい内部対立に責任を感じた杉山は、とりわけ共産主義的な左翼分子とは全く異質な存在
であったため、十二月の日本労農党第一回大会で委員長を辞任、代わって新しく大山郁夫が中央執行委員長に就任した。
すでに七万人の農民を組織した日本農民組合にも、右翼の地主と妥協する者や小児病的左翼との対立が生じていた。土を離れ農民生活そのものに即しない観念的運動が、いかに純朴な農民の道を誤るかとみる杉山、温厚にて忍従の杉山も内部闘争を嫌って一旦は身を退いたのであったが、彼を「日本農民組合の創立者”「日本農民運動の父」であるとみる農民は、杉山擁護のために全国協議会を設置したのである。
しかし、ここでも杉山を支持する全国協議会は、農民組合の分裂をもたらし、その実体は日本労農党の支持団体であるとして、ついには「杉山氏支持協議会は地主の手先」との批判を受けるにいたった。それでも杉山個人に対しては堅実派の組合長とし、五年間にわたる日本農民組合への尽力に敬意を表し、左翼分子からでさえ「自愛を祈る」という言葉で語られているところに”農民の指導者力」杉山への敬慕の深さを知ることができよう。
大正十三(一九二四)年十月、日本基督教連盟が農村伝道に関心を寄せ始めたとき、杉山は大正十四(一九二五)年十月の日本基督教連盟総会に、神学校で農村問題を講義すること、短期基督教農民学校を開くこと、農民セツルメントを設けることなどについて建議している。かくて賀川豊彦とともに日本農村の宗教的改造と建設を果たさんと志をたて、
一、農民福音学校の開設
一、文書伝道一伝道用パンフレット雑誌発行)
一、講師派遣(神学校、都市教育その他への要求に応じて)
一、農村伝道(直接伝道後援)
一、農村セツルメント事業の普及
などの目的を実現するために、まず農民福音学校を開校、農村改造を志す戦士の養成を期待した。それはデンマークのグルンドヴィッヒの精神に従い、人格と人格の接触する教育の道場であり、教室も器具もなくとも修養の志に燃えるまさに戦士を養う三十人規模の小さな塾であった。
杉山は土に生きる農民たちの生活している農村こそが、厳しい条件があっても伝道の絶好の処女地であるとして、「農村教会の自給基地に就きて」などの講演を続けたが、平穏な話しぶりの中に長い忍苦の生活、深い農村問題への洞察などを汲み取って感銘を深めた農民が多かったという。
なお、杉山は大正十五(一九二六)年一月に「農民組合の過去、現在及び将来』(刀江書院)、「小作争議の実際」(啓明杜)、そして現代に生きる古典として高い評価を受けている「農民組合の理論と実際』(エルノス出版)を出版している。
代表的な著書「農民組合の理論と実際」は、農民組合がどのような団体で、何をめざし、何を求め、どのような活動によって農民生活の向上という目的を達しようとしているのか、について杉山元治郎の基本的な思想、あるいは哲学が示されている。
杉山は、農は国の基、農民が喜んで生産に従事できるような農業後具を農民組合の力で実現することが出発点と説いた。そして農村窮乏の原因を土地制度の歴史的変遷をたどって考察し、窮迫した農村を救うのは政府でも政治屋でも農会でもなく、農民自身以外にはないと結んでいる。
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