フランク・ホレチェク
開拓開始期の思い出
ウィートン大学校長先生エドマン博士はその朝のチャペルで信じられない発表をしました。「アメリカは日本に宣戦を布告する」と。「私も戦場へ行くのか」と考えた。しかし、今は3年生。当日は奇しくも丁度自分の誕生日(1941年12月7日)でした。やがて、新兵委員会から「勉強を続けて、思う通りに従軍牧師になるように」と返事がきました。この時から日本のラジオヘ(原町無線塔)から戦いリポートを聴取すると同時に神学校も続けました。(1943~46年)
途中(45年)で平和があつて、「戦争の影響で多くの国々が宣教師のために開ける」と気がつきました。妻ルツと海外宣教について祈っていたところでした。
丁度その頃、仙台で働いていた友達から大野の高橋清さんの住所を知り手紙を出したところ「宣教師として来なさい」と招きを受けました。
私の団体は戦争前に日本で働かなかったので、すぐ日本に入られません。しかし、高橋さんの招きによって可能性があったので、団体議長は「高橋さんの招きを進みなさい」と私に願いました。
私たちは大野へ行くことを殆ど決めた時、急にクレーグ先生(戦争前に秋田で働いていた宣教師)が現われて、彼女により私達ミッションとして日本に入りました。
1947年8月22日横浜に着き、その船のランプの下で高橋さんが待っていました。大野地方の人たちが特っていて、私たちのために大きな歓迎会を準備しました。しかし、クレーグ先生の関係で、すぐ大野へ行けませんでした。あの時の断わる言葉を言うのは、本当にむずかしかったのです。秋田の十文字町、増田町で半年日本語を学んでから、大野へ行きました。秋田にいる間に私の日本語の教師は柿崎正先生でした。彼は戦争前クレーグ先生の導きによって救われました。私たちの下手な日本語か、殉教者であった十文字町の高橋さんの祈りかどうか神の召しがあって、大野に来て手伝いました。彼と奥さん、2人の子供(忍と傳)と牧会して30年間懸命に主のために奉仕しました。
開拓伝道のあの時代のユニークな点は次のことです。1948年のことでした
1・高橋さんは私たちの仲人をして、自分の間違えた文化や習慣などを人々に説明しました。良く日本語を間違えました。ある時、玄関で2人の青年に真面目に、「私も皆さんと同じく人参です」と言ったのです。(人間と言うつもり)
2一村の人たちは妻と私のために土地を提供し、家を健ててくれました。おどろきました。(ただ2年前には国の敵でしたが)感謝してます。
3・一般の宣教師は、無理に町々に入ります。しかし、私の場合は高橋さんを介して町々から招きを受けて集会を開きました。
4・その当時、青年達は殆ど地元におりました。どんな集会も若い人でいっぱいでした。でも、10年経ると、進学や就職、結婚する者が多くなってきました。
5・大抵の宣教師は人口の多い市や町へ行きます。しかし、神の導きによって大野村にきました。人口は約3000人、駅前は僅か500人位だと記憶してます。寺もない所でした。
6・あの当時、野外映画伝道を多くやりました。
ムーディー科学映画など。トーキーは減って、マイクで日本語を使いました。川を使ってバプテスマを施し、自転車、電車、ジープで伝道しました。日本語の不足、文化の理解不足、経験不足の私たちでしたが良い結果があったら、すべての感謝は私たちのすばらしい主にあげます。私たちはただ聖書の種を蒔き、水をやり、雑草をとったようなものです。命を下さって、成長させて下さるのは、ただ神です。神の名を賛美致します。
注。ホレチェック師じしんが書いた回想記。原町無線塔から発信された日本軍の戦闘レポートだと信じていていたようだが、これは間違いだ。とうじすでに原町無線塔は廃局されて無線を発信していなかった。