検挙と留置場生活
昭和年間基督教弾圧史話の一節 米田豊
紀元二千六百年を迎え、昭和聖代といはれる時代に、何といふことかキリスト教弾圧事件の起こされた軍国華やかなりし□に大東亜戦争にまで我等の祖国が突進していったが、其翌年昭和十七年六月の黎明、突如日本全国 て数十名のキリスト教伝道者が検挙せられた・・・これは細雨 条として降っていた夜明けであった。
数人の特高刑事達がドヤドヤと寝込みを襲って私の家の玄関に表はれ拘引状を示して同行を求めた。令状には治安維持法違反の嫌疑によりて、とある。・・・長年中風の為に病床にある妻の側で祈り「何か調べがあるそうだから一寸行って来るよ」
と一言言い残し、永くなるかも知れぬから着替を持ってゆくように注意せられたので、シャツ一枚を風呂敷包にして雨の中を一人の刑事につれられて、淀橋警察署にいった。他の刑事達は私の家から他の方向に向ったらしい。
署では警部が寝ぼけ顔で起きて私を受取り まま私の奥の方につれて行った。 をかけて又奥の方へ、まるで嘗て行ったことのある脳病院の精神病 病棟のように鍵でかため という所だと始めて知ったような訳で私は生まれて始めての別天地に連れてゆかれた、という ほうり込まれたのである。当番の制服巡査が私の髪のてっぺんから足のつま先まで胡散臭い目をして見廻した上、ゾンザイな乱暴な言で私の身分を問うた
「今朝は最早注文して終わったから朝飯はないぞ」
と云はれて又鍵で開ける六畳敷位の格子づきの さい室に入れられた。畳は敷いてある訳ではなく板の間の上に薄縁一枚しいてある其上に終日端座して居るのである。
一体何の為の検挙か一向見当がつかぬ、が何せ我等の教会が弾圧されられ居るのだナという考しか頭に浮かばない
看守巡査が終始巡視して来る、すると親しそうに「旦那」と呼びかけて格子の内から話しかける者がある。他の房で乱暴な言で口汚く怒鳴られて居る者がある。ヤキを入れられて(打擲せられて)居る者もある。
看守巡査に一人親切なのがあり
「お前は永びくだろうが年取って居るから□らぬようにせぬといけない。係りの人にいって毛布を差入れてもらえ」といってくれた。私の係りというのは特高部長だときいたから特高室に調べに出された時、毛布の差入れを許してもらいたいと頼むと「ナニ、毛布が欲しいって? ぜいたくいうな。此処は別荘と違うぞ」と一喝せられたのみであった。
官弁(留置場の弁当)は一食十何円とかで其頃とはいへ余りに安く、飯はやっと茶椀に一杯位、副食物はほんの申し訳にきわめてそまつなものが少しあるだけ、二日や三日なら我慢出来るが一週間二週間となるとたえられなく。始は差入れを許されなかったから日々空腹でたまらぬ。ダニエル書バビロン捕囚の青年らが野菜と水のみで養はれて健康も顔色も少しもおとろえなかった聖書の記事を思い出して私は毎食事毎に、
「ダニエルの神様、此の少しの粗末な食事で栄養がつきますように弱りませぬように」
と祈ったものである。
主の為に恥辱めも何かあらん我が為□え君を思えば
留置場では何も読む事は出来ぬが調室の中に私の証拠品として来て居る聖書を調べの間に読み、詩篇二十三編中、ローマ書八章