ホーリネス原町聖教会

〔第七章 終戦後の教会
 終戦直後 昭和二十(一九四五)~昭和二十二年(一九四七)
 終戦によつてキリスト教会は一斉に伝道活動を開始した。原町教会も兼任者である磐城教会の中村清次牧師を招いて集会を再開したが会衆は主として高校生(注。学制改革は昭和22年から新中学スタートなので新制高校は23年からである)と青年男女であった。当時のキリスト教ブームは日本全土に及んだが、その中には戦後日本の混乱の中で心の拠り所を真剣に求め、新しい日本が新しく愛と平和を目指すことを希求する人々もあり、また教会につながりを持つことが占領下の日本に生きるのに有利と考えた人々もあったろうし、またマックアーサーの占領政策に対するゼスチャーとして教会に足を運んだ人々もあつたと思う。
 従つて数年後には徐々にキリスト教ブームも冷却して行くことに成るが、教会がこの時期に人々を捕えて救いの喜びを満し得なかったことは大いに反省すぺきことと思う。〕
 と、戦後のキリスト教会を取り巻く状況を、成瀬高編「原町教会七十五年略史」は語っている。日本キリスト教団原町教会の歴史については、克明なる教会史が成瀬高氏の手で記緑されており、これによると原町にキリスト教が入ってきたのは明治30年代のこと。中村にキリスト教会(当時は講義所と呼ばれた)が建てられ、中村から出張して路傍伝道が行われたという。
 戦後も、明治をなぞるようにして中村からは外国人宣教師がやってきた。またカトリック教会もやってきた。日本キリスト教団の動きについては詳細な同氏による前掲書にゆずり、これとは別な流れを見たい。
 終戦後の一時期を原町で送った人々の中には様々な人があるが、原町高校の創立記念事業として「校史編集委員会」の調査で、昭和23年に創刊された「原高新聞」に記念すべき第一号の印刷を担当した岡田汐子さんが、千葉県に在住していることが判った。「原高新聞」創刊号は、ガリ版印刷つまり謄写版印刷である。
 戦後の若者、特に高校生たちがキリスト教会に通うようになったのには、新時代の到来や新文化への興味もあったが、この岡田汐子さんという人物の存在も大きかったようだ。
 成瀬高氏の「原町教会七十五年史」の中に、岡田さんへの言及がある。

 『終戦後の教会』つづき。
 〔このような時に伝道の協力者として岡田静男夫妻が与えられた。殊に汐子夫人は日曜学校を初め男女学生や青年に新しい生き方を示し教会に活気を与えた。夫人は文才もあり、熱心な信仰の持主で、指導的能力にも恵まれてよく若い人々を引きつけた。岡田静男牧師はホーリネス教会出身の牧師で、夫人と共に教会の集会を指導し、定期の礼拝、伝道会及び祈祷会等を再開した。(原町教会は戦時中は無牧であった)〕

 岡田静男汐子・牧師夫妻と
 ホーリネス教会の離脱

 昭和21年には、岡田夫妻は原町教会を離脱して新たに原町ホーリネス教会を設立。戦時中は宗教団体法によって国策で合同を余儀なくされていたものが、戦後の各教団再編のため、原町のような小さな町においても、旧教派への復帰という結果となった。ホーリネス教会は信者の自宅を借り、のちにノルウェー宣教師らと合同で集会を続けていくことになる。

 岡田静雄・汐子牧師夫妻
 千葉県東金市求名2-21に在住の岡田静雄引退牧師と汐子夫人に電話で当時のことを尋ねてみた。静男氏は78歳。汐子夫人は83歳。ともに健在である。
 岡田静雄氏「私はホーリネス教団におりました。戦争中、弾圧があって、解散させられていました。終戦と同時に復職いたしまして、家内が平の中村先生からのお話があって原町に招かれた。紙もないような時代でしたが、家内は若い人たちのために雑誌を作ったりしていました。しばらくしてから日基の牧師が来るようになったので、私たちは会堂にいたわけではないが、会員は20名ぐらいだったでしょうか、そこを譲って、中村に来たノルウェー宣教師と、双葉に来たアメリカ人宣教師に協力して欲しいと頼まれて、共同で伝道に当たりました。私は大野出身で、原町から双葉郡に出張して開拓伝道をしていましたから。原町のことは家内の方が詳しいでしょう」
 汐子夫人「原町の駅からまっすぐに行ったところの旅館に、たくさんの人が住んでいました。あんな時代だったんですねえ。若い人たちがみなさんよく集まってくれました。洋服屋の青田さんの娘さん、高校生だった太田さん、松木さん。駅前郵便局の折笠さんもよく手伝ってくれました。原町高校でも集会をしましたよ」
 折笠晴二郎は、東京で薬局を経営していたが戦争で故郷に疎開。一時、駅前郵便局の折笠家に住んでいた。戦後は薬剤師として雲雀ヶ丘病院に勤務。佐藤馨はメソジスト信者だった。消費者組合などで活動した人物である。
 汐子女史は、今なお原町のかつての信徒たちとの交流を継続している。

 ホーリネスの離脱
 ホーリネス教会の離脱について成瀬稿75年略史は次のように語る。
 〔岡田静男牧師はホーリネス教会出身の牧師で夫人と共に教会の集会を指導し定期の礼拝、伝道会及祈祷会等を再開したが、戦時中国策によつて組織された日本基督教団の基礎は未だ充分堅まらず、原町教会の伝統的教会観と岡田牧師の持つ教会観とには多少の相異も見られ教会形成は必ずしも順調ではなかった。
 然し時代の傾くところキリスト教会は何処も盛況を極め、教会活動停止のため教会を離れていた人々も漸次復帰し、新しい受洗者も加えられて、教会創立当時からの田村、阿部家の関係者を初め、他教会から転入した佐藤馨、平野栄之進、折笠晴二郎、戦時中帰郷した松本政隆等が教会の維持運営に当り、戦後二、三年の間に教会は稍々活気を呈して来た。
 然し昭和二十一年(一九四六)を迎えて今後の発展を目指して教会総会を招集し種々の案件を審議する際岡田静男牧師は原町教会を離脱して新たにホーリネス教会設立を宣言し教会の分裂という事態が起った。その事情を簡単に説明すると、戦時中宗教団体法によつて統合された各教派のうち、教団と同調することが出来ないで旧教派に戻るか教団を離脱して独自の教団を形成する教会が生じた。教団の成立を神のみ旨と信じこれを育成して真にキリストにある共同体を形成しようとする人々と教団は戦時の国策として余儀なく合同せしめられたもので戦争の集結は同時に教団の解体の時と考える人々とがあった。
 然し根本的には信条に対する伝統的相異が旧教派への復帰を願う結果となったものと思われる。このことがこの原町の小さな教会にも発生したのであった。即ち原町教会は従来日本基督教会(長老主義)の伝統を受けた教会であり、岡田牧師はホーリネス教会に属していたため、日本基督教団からホーリネス教会が離脱して日本ホーリネス教団が組織された結果岡田牧師もこれに準じたのは止むを得ぬことであり、また十数名の信徒求道者が岡田牧師と行動を共にしたこともまた止むを得ぬことではあったが、教会の再出発途上にこのことがあったことは、教会にとつて非常に不幸なことであったと思う。
 然し神はどのような事態の中にも生きて働き給うことも事実で、教会役員及青年の中核にある人々は教会の分裂を遺憾とし、この事によって更に責任の重大さを自覚し教会の維持発展と宣教の使命に奮起し、教勢は不幸な分裂にも拘らず順調に伸びて、その年のクリスマスには男八、女一〇、計二一名の若い人々が受洗入会した。〕

 成瀬氏の原稿による75年史では「原町教会の伝統的教会観と岡田牧師の持つ教会観とには多少の相異も見られ」と、のちのホーリネス離脱の原因について、個人的教会観の相違をあげ「戦時中宗教団体法によつて統合された各教派のうち、教団と同調することが出来ないで旧教派に戻るか教団を離脱して独自の教団を形成する教会が生じた」「根本的には信条に対する伝統的相異が旧教派への復帰を願う結果となった」と説明しているが、真の背景はそんな感傷的な、なまやさしいものではない。
 ホーリネスの分離はセクト主義によるものではなく、もっと根元的な問題だった。教団には国家権力との関係において、決定的な原罪があった。国家の要請に応えて合同し当時の教団指導者は天照大神に教団誕生を報告し、天皇の神性をみとめることで存続をみとめられたが、これを認めないホーリネス教派などは集中的な徹底的苛烈な弾圧を受けた。
 ペテロはイエスを三度否認し、暁の鶏の声を聞いて烈しく泣いた。
 教会の頭とされたペテロが、イエスの予言どおりに主を裏切ったという有名なエピソードは、その後の日本基督教団の贖罪的宿命を暗示していよう。
 鶏の声と暁とは、教団にとって日本の敗戦による戦争の終息であった。それは彼らの十字架となった。

 
 平野宅での原町聖教会集会
  終戦直後から昭和29年まで

 平野栄之進夫妻は、終戦の直前に帰国し両親の住む駅前通りの家に落ち着いた。この信徒夫妻が戦争中海外にいたことは幸いだった。8月の終戦によって封殺されていた信仰の自由が復活しても、混乱した世の中で途方に暮れていたときに、ホーリネスの牧師夫人である岡田汐子女史が原町にあらわれ、原町幸町教会で活動を始めたので、ただちに合流した。
 上記のような理由でホーリネス教会が原町幸町教会から離脱・分裂したときに岡田牧師夫妻について同教派の平野夫妻も行動をともにしたのは当然のことであった。一緒に離脱した人々とともに「原町聖教会」の看板を掲げ、ここに原町ホーリネス教会が誕生した。
 終戦当時、幸町教会に通いはじめ、のちホーリネスに通っていた者に鉄道員の峰氏や、兵隊から帰ってきた鹿又仁、泰の兄弟もいた。鹿又仁氏の回想では、
 「太鼓を叩いて路傍伝道をしていた汐子さんの説教に、新鮮な息吹きを感じて教会にみちびかれた。最初は汐子さんだけが来て、静男牧師は富岡の方にいた」という。
 「あの頃なにもない時代に、わずか数ページの文集でしたが、汐子さんは文筆に優れていた人で、彼女が作った冊子が若い人たちによく読まれていました。今でも「恵信」というパンフレットを送っていただいています。汐子さんの両親は仏教の伝道師をしていてアメリカへ行った帰りの船の上で生まれたので汐子と名付けられた、と聞きました。正直言って、静男先生よりも汐子さんの方が魅力で教会に集まった人が多かった。静男さんは牧師ですから、よく人間の「罪」について指摘されました。ホーリネスは「罪掘り出す」だと外部の人たちから言われたものです」と鹿又氏。
 平野栄之進は軍属として満州で働いていたがもともと大工であったので、自宅を改造し、玄関入り口に十字架の桟をこしらえて教会らしく、また庭の樹木を切って、入りやすくした。平野夫人の回想である。
 「ぼろ屋を解放して自宅を教会にしました。聖教会という看板を掲げたんです。外を通りかかる子供たちが、ああここは「罪掘り出す」だ、なんて言い合って通る。教会では食べていかれませんから、汐子さんは謄写印刷の仕事をされました。ガリ版が上手で、いろんな仕事を取って生活しました。私もタイプを教えて頂いて働いたんですよ。幸町教会の石川製糸に働いていた高篠(あい)さんという人は、教会奉仕のために仙台に通ってオルガンを勉強してきましたが、子供がいましたから生活するために豆腐屋さんをしてましたね。汐子さんからはこの2月に「日々の糧」という手作りのワープロ本を頂きました。今でも汐子さんとは連絡があります。最近、昔ホーリネスにみちびかれた人が70年も眠っていた信仰が、また目覚めたといって交わりを復活しました」
 現在、旭町の秋葉神社に隣接してゴトウ額縁店を経営する後藤さんは昭和20年4月12日の東京空襲で焼け出され当時中学生の時に、原町に疎開し秋葉神社の隣りに住んだ。中央通り界隈で聖教会には近かったので、よく通っていたという。
 「岡田牧師がとても親切にしてくれるのと、お菓子がもらえるので行っていたんですよ。当時はずいぶん高校生が行っていましたよ。鹿又さんなんかが中心になって、旭公園でも天幕伝道をやっていました。とにかく食べ物がない時代でしたから、クリスマスのあとのケーキは魅力だった。私はそれが目的で教会に行っていました」 
 ともあれ軍国主義一色に塗り固められていた空がいっぺんに青空になった。誰もが新時代の新思想と文化に飢え餓えていた。戦後史の幕開けの時期に原町とって岡田女史は、まさに干天の慈雨であったといえよう。彼女はキリスト教界だけでなく、昭和23年から新制の学制の発足した原町高校の生徒など若い世代に大きな影響を与えた。 岡田汐子さんは1984年3月発行の「原高同窓会報」に特別寄稿して、「創刊号の謄写を引き受けた頃」と題した回想記を載せた。
 〔私が御校とかかわらせていただきましたのは、六三制に変わるという、そんな時でした。終戦の年の秋も初めの頃、招かれて幸町の教会で集会を持ちはじめたのです。別に広告もしなかったのですが、高校生や若い人達が次から次へと出席されるようになりました。原高にも招かれて何度も参りました。(略)
 私共は丸九年間原町に居りました。終戦の何もない状態から、仮設の市場が建ったりして町もにぎやかになりやがて市制がしかれたのでした。原高の新聞の謄写をお引き受けした時に、見出しの柄をどうしようかと考えたことを覚えています。ふつうの新聞を手本にして、横線の中に桜の花を散らすことにしたのでした。教会奉仕部の何人かがガリキリをしていましたから、本文をキッたのは誰であったか何時かは覚えていませんが、カットや見出しの字は自分で書いた覚えがあります。荒目のヤスリで、原紙をツブしてありますが、そのヤスリは今でも手元にあります。〕

 昭和26年にノルウェー東洋宣教団の二人の婦人宣教師が原町に来訪してから、北原掘という小さな川べりの借家で英語を教えながら布教を始めた。福音教会の前身の伝道所である。
 また橋本町に昭和25年から建設していたカトリック教会が26年1月の完成し、こうして新しい教会が次々に活動を開始した。
 岡田夫妻は原町が原町市となって市制を布いた昭和29年に原町市を去り、残されたホーリネス信者・平野夫妻らは昭和34年4月から原町福音キリスト教会に合流し平野宅で合同で礼拝を守ってきた。同教会の教会堂が昭和44年8月に錦町に建設献堂され、平野宅での長い礼拝の会場としての役目は終わった。
 平成10年(1998)11月に、平野夫妻の次男敏彦氏の手でこの記念すべき建物は解体撤去された。

 菅野範正牧師と、きん夫人
 昭和32年から35年3月のホーリネス原町聖教会

 伊達郡出身の菅野範正牧師と京都出身の妻きん夫人はホーリネス教団の原町聖教会で、3年間赴任した。
 岡田静雄牧師、汐子夫人が原町を去ったあと、独身の野村とみえ牧師と、星賀百合子牧師が昭和31年から32年まで教会に赴任した。そのあと伊達郡富成町出身の菅野範正牧師が赴任してきた。牧師は昭和32年から、夫人は昭和33年5月から35年3月まで原町にあってこれを助けた。娘の十和子さんは34年から原町に移り住んだ。京都から原町高校に転校してきた。
 昭和30年代の聖教会を知る信者にとって印象的だったきん夫人は残念なことに昨年1999年5月に90歳で亡くなられていた。
 当時高校生だった娘の十和子さんから、牧師夫妻と原町時代の当時の様子についてインタビューした。
 「平野さん、小林さん、栗田さん、魚屋の鈴木さん。どうしていますか」
 なつかしそうに、原町時代のことを語ってくれた。
 菅野範正氏は保原と掛田の中間点にある伊達郡富成町の出身。鉄道員として働いていたときに入信。神学校で牧師となり満州で伝道していたが、宗教弾圧によってホーリネス教団「きよめの教会」は閉鎖させられ、警察に検挙されて監獄にも入れられた。
 現地で補充兵として召集されたが、そのころ仲間の牧師とも現地の医師会に勤務し、病院施設の敷地内に住んでいたことで、家族は住居や食料では苦労しなかったものの、菅野牧師は終戦と同時に満州に攻め込んできたソビエト軍に抑留され、4年間強制労働を課されたあと、戦後は赤化教育のために日本に引き揚げてからもしばらくは苦しんだという。
 ソビエト政府は、日本将兵を強制収容所から解放して日本に復員させる前に徹底的な共産党イデオロギー教育で洗脳していた。
 「帰ってしばらくは共産党のことばかり喋っていました。家族もしようがなくって、そうかそうかと聞いてましたけど、ようやくしてキリスト教のことも話すようになって安心しました」
 おちついてから長野県に赴任。夫人が京都出身だったため、京都で古書店を経営しながら伝道活動を続けていたが、故郷の福島県で伝道することを希望。古書店経営は順調だったが、これを知人に譲って原町市に転任してきた。
 「父は原町ではとにかく、種蒔くことに専念していました。」
 と十和子さんはいう。
 市の中央の旭公園で天幕伝道をしていた時に、大洪水に見舞われた、と回想する。昭和33年の大型台風だろう。
 「あのとき梨が全部落ちてしまって、あのあと二束三文で売られていたのを覚えていますよ」
 ほかにも学校の講堂を借りての映画会などを開催しながら伝道した。菅野牧師ははじめは自転車で、やがてバイクで伝道した。
 石神伝道を行っていた。浪江町、福島市でも出張伝道をしていた。もちろん郷里の伊達郡でも。
 のちに福音教会で洗礼を受けることになる渡辺広さん(現在は原町聖書教会)は、少年時代に原町に転居してきた際に、知り合いも友達もいなかった一年生のころ、淋しい毎日だったが、行商をして暮らしを立てていた母親に連れられて行ったのが馬場の公会堂であったという。教会に通うようになるはるか以前に、たった一ヶ所、救いの場所だったという。そこで集会を持っていたクリスチャンのグループに、温かく迎えてもらったことが、幼時にキリスト教とかかわる思い出だと、受洗のときの体験を原稿用紙6枚に綴ったものを信仰宣言で語っていたのが印象的だった。1986年の、まだ肌寒いイースターの日であったと記憶する。
 馬場で礼拝の集会を持っていた、というクリスチャン・グループは、戦前にあったデサイプル原町基督教会の記録はあるが、戦後にはどの教派であったか資料もなく、判明しなかったが、こんかい判明した。
 それはホーリネスのグループだったのだ。
 巡回伝道で開拓していた掛田町に移って、ホーリネス掛田教会を創設。故郷で伝道する夢を実現した。
 菅野牧師は昭和34年に私立神愛幼稚園を創立。幼稚園のなかった掛田町の要請もあって、町立にさきがけて幼児教育のパイオニアとなった。
 原町聖教会のホーリネス信者らは、昭和35年にノルウェー東洋福音宣教団の原町福音教会と合流し合同礼拝を守った。
 範正牧師は平成4年9月に90歳で昇天。娘の十和子さんが理事長・園長を引き継いで現在にいたる。母親のきん夫人は平成11年5月9日に、昇天した。
 最後は第一級の身体障害となって動けなかったが、頭脳は冴えて何でもよく覚えて語ることも明晰だったという。
 十和子さんは60歳。幼子の魂に「キリスト教教育による豊かな人間形成の基礎を培う」(神愛幼稚園の建学精神)という理念で、ますます元気に福音をのべ伝えている。

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