ノルウェー宣教団の布教

 成瀬が「ホーリネス教会は弱体化し」たという記述は、あくまで日本基督教団という組織からみた伝道状況である。岡田夫妻は別な開拓を行っていた。最もキリスト教的でない、と認識された土地としての相馬双葉地方に種を蒔く仕事である。言い換えれば最も労多くして実に実り少ない徒労に近い事業だが、すでに父祖たちが信仰に目覚めて、その信仰の遺産によって生きる人々を牧する仕事と、これまで全く福音の聞こえなかった荒野でそれを伝える仕事では、おのずと仕事の質が異なる。
 官吏として生きた成瀬氏にとっての教会経営の道と、もっと霊的果実を求め与えたい牧者とでは、畑が最初から違うのだ。岡田牧師はみずからの出身地である双葉地方、阿武隈台地で、アメリカ人ホレチェック宣教師の伝道に協力していた。一方でノルウェー宣教団とも共同の礼拝を護っていた。
 福島第一聖書バプテスト教会の40年史には教会の草創期について、初めての宣教師ホレチェック師が双葉地方に入る以前に、岡田氏が布教していたことを記している。
 「厳密な意味で、福音の到来ということについて言うならば、それは確かに今回が、全く初めてではなかった。すでにホーリネスの人々が、当地に伝道隊を組んで足を踏み入れ、福音宣教の御業を成してはいた。同じホーリネスの岡田静夫師(理・千葉県・岬キリスト教会牧師)は原町等に拠点を置きながら、当地でも、宣教の働きを押し進めておられた。」と。
 アメリカの元原ノ町空軍駐留兵士たちに「ヤシント・エベールというカナダ人神父を覚えているか」と、手紙で問い合わせた。カリフォルニア州のローランド氏と、ミズーリ州のトレーシー氏の返答はいずれも「ノールウェー人宣教師なら知っている」というものであった。
 高野光雄氏(群馬県在住)は終戦直後の原町で初めてキリスト教会と出会った。「私は中学一年生の頃にキリスト教会の文字が目に止まりました。昭和21年に私の従兄(カナダ生まれ)の小山誠一さんが食糧難で甘い物の欲しい時代にお菓子を持って日本に伝道に来ていることを聞かされてからです。自宅にも来ました。
 中学生の頃に、学校帰り、川っぷちの伝道所に寄ってみました。中学生が六名ほど正座していてお祈りをしているところでした。私の第一の目的は英語を覚えたいという事でした。今でも覚えているあの時の賛美歌は「いつくしみ深き主なるイエス」「十字架の血にて清めぬれば」でした。英語、日本語でも歌いました。英語では主として「Into my heart」「Eanesly Tenderly Jesus is coming」でした。その頃の女性伝道者の名前は覚えていません。黄色い髪の背の高い女性で、当時は外国人といえばアメリカ人だと思っていた。二名いました。」
 と当時の記憶を語っている。
 これはノルウェー宣教師のこと。現在の黒田接骨院の真向かいに小さな民家を自宅として借り、ここで布教を行っていたのである。
 この40年余、原町、相馬と北欧ノルウェーとの間には絆がある。原町市史と続原町市史の筆者とは、このノルウェーの東洋宣教団については全く無知のようだ。市史には、この東洋宣教団の原町キリスト福音教会については全く言及がない。教会堂が建設されて十字架が掲げられたのが昭和44年だから、市史発行の昭和43年には原町市民にとって「見えない教会」であった(電話帳には載っていたが)。
 しかし教会が建設されて12年たった昭和56年になっても、旧原町人の原町市史続編の筆者には、駅東に建った教会の姿は「見えない」ままだ。「続編」はエホバの証人やモルモン教など、キリスト教世界の異端とされている団体さえ掲載しているのに、正続扱いのセブンスデー・アドベンチスト教会が原町に誕生したことも知らない。
 北欧諸国は国旗に十字架を意匠しているようにキリスト教を国教とする国である。北欧ノルウェーから国をあげて中国へ伝道していた東洋宣教団は、1949年の中国共産革命によって国外追放となり、このため同宣教団は伝道先を台湾および日本へ転じた。日本伝道を開始するにあたり、どの地区に伝道するかを検討した時に、賀川豊彦の助言でキリスト教普及の最も遅れている地域として福島県の浜通りが選ばれたという。
 戦後のカトリック伝道にしても、同様の理由から相馬地方が集中的に伝道拠点とされ、その地理的中央の地に原町が選ばれたようである。

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