石川保次郎氏を懐ひて 遠藤秀雄
私が石川氏を知つたのは大正三年六月のことで、其の後二拾有余年公私上特別の間柄ではあつたが、今や齢古稀精神耗散してこれが思出も大方は忘却したが、乞はるるままにおぼろげな記億を辿り、思ひ出づるままを雑然と記して見よう。
当時の原町は些々たる町に過ぎなかつたが、其の後発展に発展を重ねて現在にいたつた。其の間之が発展に寄与すること石川氏の如きは、多しとはしない。
石川氏は石川家八人の同胞中末女リヨ氏と結婚。石川姓を継ぎたるもので、当時武州にあつた保次郎氏は原町に来ることを肯じなかつた。然し牧師たりし義兄和助氏夫人の
はらの町住みて都となし給へ
のちの世人の爲を思ひて
といふ歌に感奮して、大乗的立場より氏が一生の事業を開始せることは、私が秘かに佩へ置く処であり、又最も畏敬にたへざる処である。
氏は、営時開業中であつた元原の町製糸場を一ケ年賃貸借の契約をなし、翌大正四年六月まで製糸操業を行ひ、明けて五年春三月旧工場を買収し、次いで四月より直に五百釜の計画の下に工女室、作業室、事務所、倉庫、乾燥場などを建設したのである。氏は温和なる一面、極めて豪胆、意志あくまで堅く、一度思ひ立ちたる事は貫徹せずんば止まざるの慨を有し、機敏にして細心の注意を怠らず、時には短慮の謗をさへ招く如き事もあつたが、かうした一面が又氏の大をなさしめた所以でもあつたと思ふ。
原の町云々の歌こそ石川氏の大きな指導精神ではなかつたらうか。
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氏の凡ゆる行動は、天なる神への奉仕であつた。氏にとつて工場使用者はすべて同胞であつた。氏のクリスチヤンたるの面目を、私は男女工待遇の中に明かに見るのである。今こそ児童虐待防止法の実施を見、女工待遇改善など叫ばれては居るが、氏は今を去る二十年の昔に於て、既に現在に於ても模範とするに足る如き方法を実行して居たのであつた。功利心を没却した大きな人類愛に外ならない。當時女工は岩手縣地方のものが多く、家庭貧困の事とて教育は充分でなかつた。よつて氏は普通學術、裁縫、行儀作法生花などに夫々講師を招聘し、又毎日曜日には講堂に於て氏自ら工女に訓話せる事など、及び病弱たる工女には病室を設けて、之に看護婦をもつて看護せしめた事など、私は実に人類の一員として斯る人を得た事を神に感謝せざるを得ない。
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氏は本より功利の徒ではない。人格の所有者である。氏の念頭には常に相馬地方を都となさんとする考へが去らなかつた。氏が相馬地方啓発の爲に貢献したる事も数多い。就中蚕業方面に於ては之が奨励のため私財を投じ尽されしは、知る人の知る処である。氏は原町町会議員として茲に十一年、其の間町の発展の爲に尽されし功績は、実に枚挙に遑なきものがある。
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氏は又芸術の徒であつた。刀剣を愛し、書画を愛で、果ては和歌、俳句等に於ても堪能であつた。書又よく之をなした。殊に建築に於ては、その設計、技術共に專門家たるの域に達し、工場は多く氏の設計に基くところである。又染色方面は學習せる事とて極めて優れて居つた。
一齋居士日く「人之賢否於二初見時一相レ之多不レ謬」と。私が二拾余年前、原町駅頭にて面接せし青年石川氏は偉丈夫であった事を思い、感慨深きものがある。
十二年三月二十三日 新田川のほとりにて
追悼は一周忌に書かれたものであるが、遠藤氏はその直後に石川と同じ症状にて急逝してしまう。この追悼文集はその翌年、すなわち昭和13年に発行された。
こののち、日本経済は国家統制経済に移行し非戦時産業は縮小整理され、石川組は統合と国家管理の下で消滅。原町工場も片倉製糸の傘下で管理されることになった。