メソジスト派の信者たち
石川製糸工場と原町機関区
明治33年に、原町駅前に生糸市場が開始してより、この前後に関東圏の製糸工場から生糸の買い付けに業者が入っていた。こうした中に買い付けのかたわら、石川製糸工場の分工場を地方に設置するために明治末から下見のために原町を訪問していた高篠重吉が、メソジスト派のキリスト信者の最初であろう。高篠は明治20年埼玉県入間生まれ、一族すべてがメソジスト・クリスチャンの石川保次郎の眷属であり、一族の信仰の影響をうけてメソジスト信者となった人物。重吉、妻あいともに合同後の原町日本基督教会の役員、長老として戦後まで中心的人物だった。重吉は昭和50年5月30日80歳で昇天。長男の忠夫は51年12月9日に昇天した。
石川組製糸所の工場長として石川保次郎も原町に来訪。産業界、政治界においてのみならず、地方精神界にあって大きな働きをする。
石川組製糸所(石川製糸工場)の開業を、原町市史の本文では大正4年としているのに年表では大正6年の項目としている。どっちが正しいのか。
ふたたび海岸タイムスの史料からこれを検証すると、
▲石川組原町製糸所 停車場通南東原に在り、大正四年の創立にして石川保次郎氏之を経営す、合名会社にして資本金三十七万円、本店は埼玉県豊岡町にして三ケ所に支店を置く。当所は大正六年十二月原町支店と改称し、当支店資本金四万一千円にして四ケ所の支店中其設備最も大なりと云ふ、現在工女三百六十人、其他従業員男工等を合して約五百人、社運益々隆盛なり。
ところが石川組製糸所の創業は実際にはもっと古く、確認してゆくうちに大正3年の野馬追広告にすでに石川製糸の広告が載っているのを確認することが出来た。
結局、海岸タイムスの記述自体が不完全だったことが判るし、原町市史の記述は、本文も年表も、どちらも間違っているということになる。
大正7年4月23日福島民報には「女工の仙台行き」という記事があり、観桜のため相良製糸の女工さんたちが旅行した話が載っている。相良製糸工場は家庭的な企業、と評されている。
大正時代の原町は、同時代の日本の経済状況を反映して、全く女工の製糸、織物工業の労働で成り立っていた。
この時代、渋佐機業を経営した渋佐寿郎も初期教会員としてキリスト教の洗礼を受けている。大正7年当時は全県の製糸業者の組合長をつとめる要人だった。
寿郎には青春の日に、人生に悩みキリスト教信仰に出会った心の遍歴を綴った日記が残されている。のちには神道に回帰してゆくが、自宅工場の目と鼻の先にキリスト教の教会が出来たのだから、多感なこの青年はすべてが新しい明治の青春を、舶来の新文明にかけてみたのだろう。
また大正7年には東京織物工場原町分工場が設置された。これがのちの原町紡織株式会社の前身だ。創業のころを振り返った座談会があるが、当時の女工といえば、かなり乱脈だったようで、工場での就業や生活一般のうえでの規律が求められ、工場経営者にとっては教育的な指導力も求められていたようだ。
大正九年五月八日付、工場長達第一号では、従業員取締方について、次のような通達が出されている。
一、女工の夜間外出禁止
工女ノ夜間外出ハ往々間違ヒヲ生ジ易ク風紀取締上及翌日ノ作業ニ差シ支ヘヲ生スルヲ以テ爾今適宜二其ノ取締ヲ厳ニシ外出差シ止メノ方針ヲ以テ取リ締マル事トナスペシ
男子についても外出禁止で外出者は当直が氏名と時間を記録すべき旨を記しており、労働環境は隔世の感がある。
石川のキリスト教信仰がどれほど企業を支えるうえで重要な働きをしたか想像にあまりある。
大正10年2月18日民報に、次のような記事がある。
○千余の工女慰安
石川組製糸工場及び相良製糸場其他の製糸場は十六日より操業を開始せるが石川組は十五日午後五時一千名の工女の慰安会を開催し余興として仙台メソジスト教会牧師二名を招請して活動写真会を開催した
成瀬稿65年史では次のとおり。
〔大正初期の原町のキリスト教伝道に特筆すべきことは大正五年(一九一五年)石川製糸工場が創業し、原町産業界に雄飛したことである。同工場主任石川保次郎氏夫妻は熱心なキリスト教徒であったので、工場内に於てキリスト教集会を開き、従業員に対して宗教的教養を与えると共に、町民に対しても積極的に伝道を実施し、その感化は今も市民の中に残っていると思う。
石川氏はメソジスト派に属していたのでその方面の有名人を招じて、度々キリスト教伝道会を開催し、夫人りよ姉は婦人矯風合原町支部を結成して、キリスト者婦人を中心に、町内の婦人層に働きかけて、純潔運動を実施し、安川とよ姉等町内有意の婦人達がこれに協力した。また石川氏は当時の原町機関庫長であった成瀬銀一郎氏と共に原町禁酒会を結成して、酒の害を説き、禁酒運動を展開し、その影響も無視することか出来ないと思う。〕
明治から大正初期にかけて、原町は動力織機の導入によって機操場が激増。周辺村部の農家の養蚕業を背景に県の蚕業試験場なども誘致され、地元銀行や中央資本の銀行支店・出張所も進出し原町の経済は活況を呈した。
大正3年の石川組の原町分工場の進出もその一環であった。
注。成瀬稿「65周年誌」「75年略史」では、石川製糸工場の創業が大正5年としてある。しかし、実際には大正3年にはすでに創業しており、成瀬氏もまた原町市史の誤記にひきずられている。市史では石川製糸を、本文で大正5年とし、年表では大正6年の創業としているが、どちらも間違っている。
石川組製糸所での講演会
鉄道の教会福島メソジスト
記念すべき日本最初の鉄道ストは
石田六郎らクリスチャンが指揮した
〔福島メソジスト教会の第二期の担い手に関しては、『日鉄、矯正会とキリスト教』(『明治学院経済論集」、第二号所収)と題する工藤英一氏の綿密な研究があり、これを手がかりとして進みたい。
さて、明治三十二年に、日鉄一福島鉄道機関庫事務所技手として石田六次郎が福島に来たり、集会が定期的にもたれるようになったことは先に述ぺたところである。これは日本労働史上で周知のように、明治三十一年のはじめに日本鉄道会社(現在の国鉄、東北本線)の機関方によって大規模な同盟罷工(ストライキ)があったことと大いに関係がある。
この「日本鉄道会社」の待遇改善期成大同盟の首謀者の一人が石田六次郎である。(事件当時かれの住所は尻内)この日鉄、機関方の同盟罷工は四百余名の参加者により東北線一帯の列車運転を停止せしめた事件で、その要求は貫徹した。規模の大きさからいって、明治の労働運動史上画期的なものであったという。この事件中、当然石田は責任上解属されはしたが、このストライキが労働者側の勝利であったことと労働者側の攻勢により、かれは復職して明治三十一年八月に仙台勤務となり、次の転任地が先述のように福島であったわけである。いわばストライキの中心地であった福島に乗込んできたかっこうになる。
この争議の途中で会社側より十名の機関方が解雇されているが、その内の五人までがクリスチャンであり、また福島における指導的役割をはたした宇野豊吉、成瀬銀一郎らは、二人とも、明治三十三年十月と十二月にそれぞれ長老司石坂亀治によって受洗している。そのような状況の中で、このストライキがもたらした結果は、労働者側の会社圧迫に対抗する自衛手段たる「日鉄組合矯正会」なる組繊の結成であり(結成は三十一年四月五日、本部を福島におき、支部を上野から青森まで十五の駅においた)、争議によって勝ち取った労働者意識の品位向上に向けられた。労働者側全員がそうであったということはできないが、すくなくともクリスチャン首謀者らの方向は、倫理的高潔をもつキリスト教信仰の「伝道」であリ、その実践目標として「禁酒会」運動の宣伝であった。
『労働世界』は「日鉄同盟罷工余談」と題して、「今度日鉄同盟罷工事件に於て特色とすぺきは、首謀者たる石田六次郎氏は基督教信者たる事。次に接戦の間、各罷工者は一滴の酒だも用いず且つ梶棒等一切用いざりし事。第三は直ちに仲裁に委したる事、特に代議士芳賀卯三吉氏、福島県より選出せし同士が罷工者に同情し尽力せること是なり」
また「さすがに文明的の教育を受けたる技術者の事とて従来ありふれたる鳥合の徒党とことなるもの……」(引用文、共に工藤氏論文より)となっている。これらの状況からみて、彼らの意向する方向を予想することができるであろう。先に述べた「矯正会」はその後、会員によるストライキ基金の蓄積にもっとも力をそそいだし、その強固な発達は、共働店運動(今日の生活協同組合活動に以ている)となり、その組織内部で禁酒運動も活発であったのである。禁酒運道に関しては次章で触れることにするが、大正期に活動した故井筒平は、「昔のメソジストは信仰目標がはっきりしていた。キリスト者であることは、みな禁酒運動家というような面があった云々……」と筆者にもらしていたし、石田六次郎の息石田公平によれば、「そのころ幼い私は、福島でよく父に手を率かれて芝居小屋で開かれる禁酒演説会に連れられて行った……」と述ぺていた。〕
「福島信夫教会百年史」による。
記念すべき最初のストライキ
原 ノ町機関庫の設置の年は明治31年。この年は、待遇改善を求めて日本の鉄道労働者にとって記念すべき最初のストライキが行われた年でもある。
国労のパンフレットから、戦前の労働組合の歴史に触れた部分を引用する。
〔鉄道労働者の組織活動は国有化以前一八九八年二月二十四~二十七日、日本鉄道の機関方が待遇改善を要求してストライキを決行した後、同年四月五に矯正会という労働組合を結成したのに始まる。しかし矯正会は弾圧のため一九〇一年十二月に解散。このころやはり日本鉄道の大宮工場などの労働者の間に鉄工組合の支部が結成されていたが、これまた弾圧のために消滅〕(国鉄労働組合の30年」より)
労働者の罷業は、人間の権利と尊厳の自覚にもとづくものであったが、それに対してかえってきたものは、激しい弾圧だった。しかし、機関庫の設置は同時にそこで働く者の歴史であることを、われらの父祖であり先輩である初期の鉄道員の意識と行動を記録することで、ここにとどめたい。その空気は、まさに原ノ町機関庫の開業前夜なのだ。
当時の新聞(明治31年2月26日民報)に成瀬銀一郎の消息が載っている。
〔信夫署に急報したるより同署よりは四名の巡査出張して同盟連の行く先きを追索せしめたるに 彼等は曾根田村大字曾根田字陣場成瀬銀一郎方に集合し同家を臨時期成同盟倶楽部と命名し高談放語 殆ど当るべからざる勢にて酒を飲み居たるあり〕
この記事はおそらく福島の警察からの取材によるものだろう。ストライキの首謀者の一人がまさに成瀬銀一郎であったことがわかる。しかも成瀬宅が事務局がわりだった。しかし「高談放語 殆ど当るべからざる勢にて酒を飲み居たるあり」というのはどんなものだろう。矯正会を結成して相互扶助精神のうちに機関士の生活改善と品性向上のために禁酒運動を展開していた聖潔を尊ぶメソジスト信者の成瀬らを、悪漢のように印象ずけるための警察の誹謗ではなかったろうか。「各罷工者は一滴の酒だも用いず」というところに、このメソジストの面目躍如たるところがあるのだ。
民報は、当初は罷業首謀者として、先入観にみちた表現で告発しているが、このストライキが成功裏に終わり、労働側の要求の正当性が世間から支持され、その要求が会社側に容れられたあとはむしろ労働者側に立って同情した報道に変わって行く。
明治31年4月3日の常磐線原ノ町機関区の設置は、二人のクリスチャン伝道家を原町に運ぶことになった。一人が原町デサイプル教会の創始者建部猪吉であり、もう一人がメソジスト教会の成瀬銀一郎である。吉田亀太郎が歩いて最初のキリスト教信仰を運んできたのに続き、鉄道は第二期の信仰を運んできたのだ。
メソジストと成瀬父子
福島美以教会出身の成瀬原町機関区長
〔石田氏の関係上、鉄道方面の続々と求道者を加え、機関庫助役、機関手、同助手、雇員、職工と一時は福島に於ける鉄道の教会とも称せられるに到った。現在教会に保存している明治三十四年の会員名簿二冊をみると、鉄道関係者とその家族によって各頁がうずまっており、その職名など照らして興味があるが、職務上転任等により福島在任期間も短く、右の名簿に付箋が貼られてその次第が示されている。〕
〔明治三十四年は日曜学校長として右の石田六次郎、教会の会員の地域別組会は六班に分かれ、第二班長が成瀬銀一郎。成瀬は日本鉄道会社運転技手補であり、後、一ノ関に転籍されているがその令息、成瀬高は三才にして三十四年十一月十七日石坂亀治によって受洗され、現原町教会牧師であられる。〕(「福島信夫教会百年史」)
成瀬高は、大正11年に原町にきた。父親の銀一郎が機関区長として赴任してきたのと一緒に、東北学院大学神学部を卒業したばかりの牧師として。日本基督教会の推移については、すでに成瀬氏自身の筆による沿革を掲げた。
成瀬親子(中央高、右銀一郎)
原町にあった自由大学
ある時、成瀬高氏より、もう原町には知る人もないだろうから、と大正時代に原町に存在した「自由大学についての覚書」という原稿を預かり、地元新聞に掲載したものがある。大正デモクラシーを背景にした自由主義教育運動の一端である。
「自由大学についての覚書」
成瀬たかし
十年位前の事と記憶するが市立図書館(前)館長野崎氏から次のような電誘があった。大正十年頃信州上田市に起こった自由大学運動が原町にもあったということを知って調査のために日社大の学生蛭田君という人が尋ねて来たが、図書館には何の資料も見当たらない。古老の先生二、三に尋ねてみたが心当りがないと言う。あるいは(成瀬)先生なら何か心当りがあるかと思って電話をしたと言うのである。
殆んど忘れかけていたが、私が大正十一年春、学校を出て原町、小高の教会の伝道者として赴任して間もない頃、自由大学計画の講演があり知人に誘われて参加した事を思い出して、その蛭田君と言う青年に会って見る事にした。蛭田青年は、長野県上田市に起こった自由大学の調査研究を始めたが、上田市自由大学の機関誌に、東北では宮城県仙台市と、福島県原町にこの運動のグループが出来たと記載されていたので、その調査の為に図書館を訪れたと言う。
私自身も当時(大正十一年頃)、菅野景助(?)と言う大学生の誘いを受けて自由大学の講演会に二、三回出席した事があった。
日時は確かではないが、第一回は鰺坂国義氏(改正小原)第二回が新進小説家の高倉輝民(後のタカクラ・テル)、当時「旧約と新約」と言う長編小説を出版されていた。第三回は新進哲学者出隆氏と記憶している。都合で出先生の講演会には出席することが出来なかったが、鰺坂氏と高倉氏の議演には出席して大変感銘を受けた事を覚えている。
主催者は農学校や小学校の先生方であったが、当時は原町には公会堂も講堂もなく、小学校の教室を会場にして、三、四十人の出席者であったと思う。当時私は大正デモクラシーの発生地として長野県が新しい運動を始めた事を知っていたが、原町のこの運動が、長野県の運動と関連があることは知らなかった。私の本籍地は長野県の上田市なので、その後、信州上田市付近に起こったこの運動の事をすこし謁べてみて、原町に自由大学のグループの出来た事を非常にうれしく思った。
鰊坂氏はやがて柳沢政太郎教授と共に自由教育の先達として成城学園を起し、更に柳沢敦授と別れて自由学園を創設した。高倉テル氏は長野県下で共産党の指導者となった。
当時私が原町に住んでいたのは三年位で、日本に少年法が施行され、非行問題が重要視され、司法保護事業の方面に進出する為、大阪に勤務する事になって原町を去ったので、その後この運動がどのような結末になったのか判らない。蛭田氏と別れてから二・三ケ月後、一通の書状が来た。東北大学文学部学生工藤某が差当人で、そのような連絡があったのか原町に自由大学の運動があった事を知ったので是非その状況を教授願いたいと言う丁重な書状であった。時間の都合で直接参上出来ないからと箇条書に回答を依頼して来た。私は先に蛭田氏に話した事を回答してやった。こうした調査研究は何かの形で発表されたものと思うがその事情は承知していない。
(成瀬たかし氏略歴)長野県上田市生まれ。大正十一年、神学校を卒業後、日本基督教会原町教団教会、小高教会の主任牧師として赴任。一時、司法保護関係の官吏となり大阪へ。昭和二十三年から再び原町在住。(あぷくま新報・昭和60年9月18日)
関東大震災と石川製糸
大正12年9月1日の関東大震災の発生では、いちはやくこのニュースをアメリカに伝えて救援物資が届いたという原町無線塔の活躍は有名だが、地震によって家を失った東京など首都圏から避難してくる人々で常磐線沿線の各駅は溢れたという。
こうした状況で、たとえば朝鮮人の暴動とか井戸に毒を投じたなどのデマが発生した。明治43年の日韓併合以来、過酷な支配を加えてきた朝鮮人に対する後ろめたさによる、恐怖が引き金になったものだ。
デマは軍と警察の無線と、避難民を通じて地方まで伝搬した。
浪江町近代百年史によれば、浪江駅前では竹槍、斧、鎌で武装した自警団が、暴徒と化した朝鮮人(恐怖心によるデマと想像の産物であったが)を防ぐために待ちかまえたという。
これに対して、原町駅前では、石川製糸工場の女工さんたちが、炊き出しを行って着の身着のままの避難民を迎え入れた、といわれる。
大正7年4月23日福島民報には女工の仙台行きという記事があり、観桜のため女工さんたちが旅行した話が載っている。
クリスチャン工場長の日頃の薫陶による女工らの自然な対応ではなかろうか。
石川組製糸工場は原町分工場にかぎらず川越市の本社をふくめて経営者の石川一族が全員クリスチャンであり、労働条件は良好だったようだ。
川越市史には「石川組の待遇は悪くなかったようである。一族こぞってクリスチャンであったことも、労務管理の面にプラスに現れたのかもしれない」とあり、次のような女工の手記を掲載している。
「企業である石川製糸が、他に例をみない博愛的社風を築いたのは、この信仰からなる愛の経営方針であると思う。親もとを遠くはなれ寄宿舎に預かる年はもいかない多くの女工達の為に、工場では立派な社会人に育てるべくあらゆる心を尽くしていた。」(「川越における工業の展開」より)
政治家名士としての石川保次郎
佐藤政蔵は昭和9年に発行した「随筆漫画呑気のひげ郎」というパンフレットで、前年昭和8年の原町町会議員選挙を大いにヘナぷっている。
石川保次郎君は工場を背景に安全。
◎堅いはずだよ石川投票そこで当選保次郎
などと歌われた。
原町はひどい買収選挙の町だった。
昭和7年には町長選挙が二回おこなわれている。門馬直記が病気のため4ヶ月で辞任したのが最短記録だが、松永七之助は町会議員に金をばらまいて町長に選ばれたが町の名士、有力者とみなされる町議たちの殆どが次々に原町警察署に逮捕され、最後には松永町長も遂に逮捕され、辞職した。
石川保次郎氏は町会議員をつとめ、その人徳ゆえに原町町長にという町民からの声もあったが、一信仰的企業人としての一生を貫いて昭和11年5月10日、永眠した。
〔石川保次郎氏 訃報 原町町会議員石川保次郎氏は十日午前十時五十分自宅で脳溢血にて急死、十二日午前一時同町キリスト教会で告別式享年五十七〕(昭和11年5月13日福島民報)
こののち、日本経済は国家統制経済に移行し非戦時産業は縮小整理され、石川組は統合と国家管理の下で消滅。原町工場も片倉製糸の傘下で管理されることになった。