原町教会1986~1989

 原町教会87周年

 原町市二見町一丁目の日本キリスト教団原町教会が創立八十七周年を迎えて記念礼拝を行った。午前十時半から開会された日曜礼拝には同教会の長老・引退牧師成瀬高さん(八八)をはじめ聖愛保育園の保母さんら約三十人の信者がつめかけた。
 同教会の創立は西暦一九○○年で六月十日が記念日。創立記念の礼拝には外部から講師を招くのが恒例になっており、この日は東北学院大学から土戸清教授(五四)が招請され「喜びがみちあふれるために」と題して記念説教を行った。土戸清教授は、五年前に九ヶ月間無牧の状態だった原町教会に家族ぐるみで仙台から通って支援した人物で原町教会信者らにとっても懐かしい顔。礼拝の後の昼食会では土戸教授と同行の婦人を囲んで、同教会婦人部の手作り料理で歓談し、先人の信仰や歴史について語り合った。
 昭和62年1987 7月8日あぶくま新報80号

 昭和62年10月(1987)特別伝道
歌手胡美芳さんを迎えて
 歌手が歌と講演
  17日サンライフ原町で
 胡美芳さんは自分の人生の境遇から中国残留孤児を思って歌い続けているコロンビア専属歌手で和歌山県主まれだが純粋な中国人。父は中国揚州の貧しい小作人の長男で生活に追われて日本へ。美芳さんは五番目の子供として日本で誕生した。「日中戦争が始まってからは父親は憲兵や警察に連れてゆかれて厳しい取り調べで傷だらけで帰る日が続いた」という。自伝「海路遥かに」(静山社刊)によると、「日本に生まれ育ち、なかなか中国人になりきれなかった私だが、わがもの顔の日本人の前では、他の中国人と同じように、卑屈なみじめさをかみしめるほかなかった」と振り返っている。
 一家は美芳さんが十四歳の時、昭和十六年に中国に引き揚げた。戦争は中国で親日中国人が迫害され、美芳さんはのちに結婚する日本青年に助けられて日本に逆戻り。しかし九州の炭鉱の町で暮らしはドン底。頼りとする夫は坑内作業で大ケガをしてしまう。そんな中で、一人の男の子を出産。
 子供を残してドサまわりの一座に加わって歌って稼いだ。精も根もつきはてて昭和一十六年に東京に出た。戦争中に上海で会ったことのある渋沢秀雄氏を訪ね氏の口ききがきっかけでコロムビア専属歌手となることが出来た。
 長い苦難の果てに見た光だった。国交が断絶したままの中国で家族が自分の歌を聞いているのではないかと祈る気持ちで歌い続けた。「日本名で歌ってみないか」という古賀政男氏にすすめられたことがあったが中国名でとおした。
 昭和四十八年に日中国交が回復して初めて里帰りし肉親に会うことが出来た。美芳さんは東京都目黒区の聖契神学校で学んだクリスチャン。
 「昔、バーやキャバレーに出て何十万円ももらっていたが、福音歌手として老人ホーム、障害児施設、刑務所、ハンセン病の療養所などで今は歌っていて感謝でいっぱいです」と語っている。
 主催は日本基督教団原町教会(原町市二見町一丁目)。入場整理券は大人三百円。中高生二百円。
あぶくま新報

 1988
 遠藤美保子さんのインド体験

 1988.1.17.おはようドミンゴ第45号
 あのマザーテレサの施設で奉仕
 原町市二見町八七の日本キリスト教団原町教会附属聖愛保育園の保母遠藤美保子さんが冬休みを利用して、現代の聖女と呼ばれカルカッタの貧民街で家のない人々の救護活動などに尽くしているノーベル賞受賞者マザー・テレサの施設「死を待つ人々の家」で奉仕するため、十二月二十三日インドへ出発した。
 二十日の日曜礼拝のあと原町教会では信者約三十名が集まって遠藤さんの歓送会を行った。
 遠藤さんは、以前から尊敬するマザー・テレサさんの経営するカルカッタの施設に奉仕しながら、マザー・テレサさんの人間性に触れたいと希望していたが、このほど実現したもの。
 「マザー・テレサさんとの連絡は直接できないことになっているため、国際ライオンズクラブを通じて、希望を伝えたところ、来ても良いという返事が届きました。冬休み「を利用して一月二十日まで一ヶ月間マザー・テレサさんのそばで奉仕してきます」
 聖愛保育園園長で原町教会牧師の茶屋明郎さんは、
 「すばらしい経験をするチャンスに恵まれた遠藤さんには、多くのものを吸収してきてほしい」
 と語っている。
1988.1.17.OHAYO DOMINGO

カルカッタのマザーハウスで遠藤美保子さん

 1988年2月21日おはようミンゴ第46号  マザーテレサの魂に触れて
    奉仕と祈りのインド体験
 日本に帰って来て初めて目に入ったのがゴシップ記事を満載した週刊誌。芸能界だグルメだと浮かれている状況に「腹がたってしまった」という。マザー・テレサのもとで奉仕するためにインドを訪問していた原町聖愛保育園保母の遠藤美保子さんは一月二十二日カルカッタから帰還した。2月2日、一息ついた頃職場におじゃまして遠藤さんの体験談を聞いてみました。
 カルカッタは、郊外に菜の花が咲き乱れる春先の陽気。マザー・テレサの施設は市内に何カ所も点在しているので市内のYMCAホテルを根城にする。マザーハウス本部で十二月二十三日から一月十九日までの許可証をもらって、いざボランティア、といきたいところだったが、着いて三日間は下痢のため体調が良くない。まずは近くの孤児や身障者の施設で奉仕。クリスマス休暇でアメリカ、フランス、オーストラリアなどから多くの若者がボランティアで来ている。そして日本からも。
 荒廃した空き家の(インドの死の女神を祀った)カーリー寺院を借りてマザーが創始した「死を待つ人の家」では、霊安室の隣で「黄色いサクランボォ~」と陽気な歌声で日本の男性が皿洗いをしていた。こんな所で、と見直してしまった。
 ボランティアというと働かなくちゃと生真面目な日本人と違って、白人はゆったりとしているし、目立つ。楽しみながらでいいのだ。構えていた遠藤さんも気が楽になったという。ジーパンとTシャツでこうとしていた遠藤さん。ヨーロッパから来ているお嬢さんたちは、こんな格好で働けるのか、と思うようなヒラヒラしたドレスである。トラブルもある。現場のシスターの指示に従わないのか言葉が通じないのか、怒って出ていってしまった女性さえいた。遠藤さんも小さな障害児をだっこしていたところを見とがめられ、「その子は病気じゃありません!」 と叱られた。子供の自立が目的なのだから、可哀想という発想はいけないのだろう。あわてて謝った。
 そして感激のクリスマス。マザーハウスの二階でミサが終わり、マザーが、「チャイ」を飲みなさい、と勧めてくれた。チャイというのはインドで飲まれているお茶だ。小柄で、猫背で、普通のお隣のおばあさんといった感じのマザー。これが、あの高名で偉大な人物なのかと思う。どんな人にも気軽に声をかけて下さる。威圧のない権威。マザーはいつも、祈りの時には部屋の入り口の扉に近い最後列にそっと立っている。いつでも人を招き入れるためだ。遠藤さんは言葉もない。「ハッピークリスマス!」と応えるのが精いっぱいだった。本当にハッピーなクリスマスだった。
 ホテルから施設までバスに乗ったり、歩いたりしてカルカッタの町を通る。その道すがら顔見知りになった家族がある。塀に屋根をかけた三畳ほどの間に、親子五人が生活している。あたりに洗濯物を干している。したたかな本物の暮らしがあるな、と感じた。むろん路上に寝る。地べたを相手に人生がある。水道管が破裂して出来た水たまりで遊ぶ子供たち。家族の長男は十三才で結婚したという。
 でもゴミ箱あさりをする人や、生きているのか死んでいるのか路上に横たわっている人の写真は撮れなかった。カルカッタは夜中まで騒音に満ちている。埃っぽくて、人がごちゃごちゃいる。
 ニューデリーやベナレスにも行ってみた。ガンジス河の沐浴も見た。行く前に原町在住のパキスタン人シャヒッドさんにこう言われた。「どの人にでもいいからアーユーハッピー?と聞いてごらん。みんなアイム・ハッピーって答えるから」その意味がわかった。「与えられていて有り難い。感謝を忘れずに」と再認識した旅でした。
1988.2.21.OHAYO DOMINGO

1989
 マザー・テレサ上映会に300人

 朝日座で十八日夜に行われた「マザー・テレサ」上映会に、約百五十名の市民が鑑賞に訪れカルカッタの聖女と呼ばれるマザーの人気のほどがうかがわれた。これは日本キリスト教団原町教会(茶屋明郎牧師)の主催による伝道映画会で、午後七時から開会され茶屋牧師のあいさつの後、聖愛保育園保母でカルカッタのマザーの施設を訪問したことのある遠藤美保子さんが約二十分間にわたって体験談を披露。続いて七時二十分から九時までマザー・テレサの活動や人柄を紹介するドキュメンタリー映画が上映された。
 上映館を提供した朝日座の布川雄幸社長は「土曜日の夜にこれだけの人を集めるのは大変なこと」と語っていた。
 同映画は十九日の日曜日も行われ、多くの市民が鑑賞していた。
 平成元年(1989)11月28日あぶくま新報

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