メッセージ (2010年「もう一つの相馬移民」より)
 天皇の謝意 先の大戦によって大きな痛手を受けた日本に対し、サンパウロ市の日本人有志が「日本戦災同胞救援会」を結成し、三年間にわたって救援物資を送られてきたことを思い起こし、血を分けた同胞の厚情にあらためて感謝の意を表したく思います・・・・(2008年4月)
 2008年4月に行われた日本ブラジル交流年記念式典で天皇陛下はメッセージを述べられた挨拶の中で、戦後の祖国救援活動に対して、サンパウロの日系社会に感謝の言葉がありました。
これは名前こそ出さないものの、サンパウロ中央委員会で運動の中心となった菅山鷲造へのオマージュと言ってよかった。(プロローグ)
 現明仁天皇は皇太子だった少年時代の昭和25年4月に、敬愛する叔父の高松宮とともに菅山鷲造に親しく面会されて、外国の日系人社会の消息を直接お聞きになられている。その後、ブラジルへは美智子皇后と一緒に三度訪問した。少年の日に初めて菅山から聞いた、外国にわたった同胞の苦難と祖国への愛情を心に秘めて現地をつまびらかにご覧になった。日系ブラジル移民百周年を記念するレセプションでは、そうしたご自分の感慨を吐露したのだ。
 かつて勝ち組負け組という、いかにも日本人らしい外地における不適応ゆえの長い流血の事件のさなかで、沈着冷静な多くの人々が崇高な祖国愛のささげものを贈ってきたことを、天皇は忘れなかった。(同書エピローグ)
 自分たちが政府からの援助を受けずに、むしろ捨石とされ、平和的に自力で困難を克服し開拓していったのとは違って、武力である銃剣を先頭に中国戦線を拡大して満州の沃野を奪取してゆく政策を展開する日本が、やがて国際的に孤立の道を辿っているとも知らず、菅山は祖国が、時分たち移民一世に続く新世代の後継者が次々と補充されることを望み、信じてもいた。「棄てられた石が、隅の親石になる」という比喩は、イエスが語ったたとえ話の一つであるが、ブラジル移民も捨石にほかならなかった。(捨石たちの義侠心)
 全ブラジルの日系人を組織し、米貨22万ドルを集め、ミルク、砂糖三万俵、衣類など救援物資を8回にわたって祖国日本へ送りつづけた。個人的にも私財7500万円を寄付し、福島県の児童福祉施設や郷里の石神の戦災孤児、未亡人、戦災者に直接支援物資を送ってきた。
 菅山はみずから提供した地所に建てられた日系老人施設「憩いの園」で余生を送り、89歳の生涯を終えた。現在、350人を越える子孫が南北アメリカ大陸で生活し、活躍している。
 今般の東日本大震災で、世界中からの支援が日本を救うために送られてきた。近代以降、無線で「地球は一つ」になった。かつて南相馬市には、関東大震災の時にいちはやく東京横浜の惨状をアメリカに打電し、首都の災禍に苦しむ国民に世界各国から救援物資が届けられる端緒となった「情報」を迅速に的確に伝えて最大功績を果たした。
土木学会の赤池あゆ子女史は、震災直後にこんなメールをくれた。
高さ200m、岡本太郎の「太陽の塔」を羽なしのっぽにしたような奇妙な送信塔は、東京タワーができる昭和33年まで日本一の高さを誇ったという。太平洋戦争ではこの塔のおかげで東北地方で最初に原町が空襲されるという憂き目にもあったそうだ。関東大震災の死者行方不明者推定14万人、海外からの支援が一刻も遅れれば、さらに増えた数字であろう。今回、おそらくは津波に流されて跡形もないであろうこの小さい町の一施設が、関東地方の復興のスタートダッシュに大いに貢献した事実を忘れてはならない。私たちは東京に住むものとして、今度は恩返しをしなくてはならないのだ。そして「小さな歴史」を手がかりにした復興。このあたりにも解答はないのだろうか? 
 こんにち政府の混乱した初期対応の拙さで風評被害ゆえに交通が封鎖された状況で食糧医薬品ガソリン等が絶たれ、YouTubeで世界に発信した桜井市長の訴えが世界の同情を誘って、外部からの善意と市民自らの力とによって切り開いた。一方で、facebookによって全ブラジルの菅山一族の四世たちともコンタクトがとれて、「菅山鷲造」という戦後の祖国日本を救援しようと立ち上がった一人の南相馬出身の人物の詳細を知らせるアルバムが送られてきた。いまわたしたちは日本とブラジルの間で、仲間と共に情報を交換しながら協力して「スガヤマ」の人物像を復元しようと作業中である。
 われわれが地球規模の「世界との絆」の中で生きている事実を歴史に学びつつ、未来の子孫に相互協力の大切さを伝えてゆこう。南相馬は世界の善意に結ばれている。戦災も核災も人災である。平和と真理を求める生き方の原点をみつめ、困難な時代を生き延びる知恵と実践の姿を世界に発信することこそ核時代以後の希望にほかならない。

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