菅山鷲造の祖国救援活動

 昭和25年の民報はブラジルの菅山鷲造らの祖国の戦災者救援活動について次のように伝えている。菅山は最も古い原町教会の信者の一人である。

在伯邦人 食糧どしどし発送 戦災故国の救援に乗り出す
相馬郡石神村から三十年前に志を抱いて渡伯し大貿易商として成功を収めたブラジル・サンパウロ市の菅山鷲造氏(六七)から在伯同胞の祖国戦災者救済運動の状況を報ずる書信が一月二十四日発北米経由の航空便で五日郷里原町に住む友人田村富弥氏の手許に届いた、菅山氏は同市日本人会長で終戦後は個人的営利事業から手を引き社会事業に当たっていたが昨年初めから戦災故国の救援にのり出して活躍している、在ブラジル三十万の同胞中、奥地の者はまだ敗戦を信ぜず「臣民連盟特攻隊」と称する秘密結社を組織して正当な同胞にテロ行為を敢行、各地に流血の惨事を見る現状だが一般同胞は祖国再建は海外同胞の手でのスローガンのもとに伯国赤十字社支部戦災同胞救援会を中心にサンパウロ他三十五ヶ所の地方委員会を設立して運動を展開した
その結晶は昨年五月以降半年間で資金米貨十三万五千ドル、慰問小包一万七千個(八万五千ドル相当)合計二十二万ドルに達し、救援物資の発送もすでに第一回分ミルク四百二十箱、第二回分干うどん二千箱、粉ミルク八百五十箱を北米桑港から発送し、また別にブラジル直送としては昨年末白砂糖一千俵を発送、一月中の発送として同じく二千俵を準備中である、また桑港野中商会に依頼して洋服、古着類一万ドル余分を買付中で近いうちに薄幸の戦災同胞の手に届く予定である
 
 菅山鷲造の郷里訪問

 昭和25年1月25日民報はブラジルの菅山鷲造の訪日予定を報じている。

ブラジルの「スガヤマ」「ムライ」の両名が相前後して訪日するというので講和問題後の起る移民問題解決のためにも郷党に異常な関心をもたれている矢先、両人の訪日についてサンパウロ市の商店経営者から二十三日母国観光団四十名と一緒に近く訪日の途に着くといううれしい便りが寄せられた、
菅山鷲造は相馬郡石神村出身、終戦後ブラジルで日本戦災同胞救援会サンパウロ地方委員会委員長として私財七千五百万円を投げだし一九四七年から一九四九年三月までの間に八回にわたってミルク、砂糖、衣類など戦災民にプレゼントしてよこしており今回の訪問も戦災にあった母国民を慰問しようという気持ちと在伯県人会のすすめで訪日することになったもの
三月二日サンパウロ空港発、三月九日羽田空港着の予定でサンフランシスコまで空路、同市から海路三月八日横浜港着の約四十名の母国観光団と合流することになっているが菅山氏は母国の状況を視察して帰国後の余命を祖国救援事業に専念したいという
母国訪問団長にこのほど選ばれた村井喜代治(相馬郡原町)はオランダ系ブラジル船会社の計画で母国観光団を組織したもので、来春三月の観光団を皮切りに今後も続々観光団が訪日する予定、村井らの観光団は一月二十八日サントス港発、南米経由で三月末横浜着の予定

 昭和25年4月24日民報は、郷里に錦を飾った鷲造のお国入りを伝えている。

村に帰る救援の主
 石神で歓迎 在伯菅山会長懐しの墓参に

相馬郡石神村は二十一、二十二日の両日はるばるブラジルから訪ねてきた村出の菅山鷲造(六八)を迎えてにぎわった、菅山は戦災同胞救援会の会長としてブラジルで活躍、また個人としても終戦後石神の未亡人、引揚者困窮者に三度にわたって衣料その他心のこもった贈物をしてきており同氏は「村の誇り」としてその帰郷を待っていた人、九日夜羽田着、十五日には石神村に帰る予定を東京で国会からブラジル事情を聞かれ、皇太子初め高松宮などにも面会を求められようやく二十日午後三時すぎ原町駅着、駅前中野屋に一泊の後、二十一日初めて石神村にもどったもので、同日は自動車で石神村大原の大井彦太郎家に、大原にはいまも菅山家の墓地があり、その墓参が帰郷の目的の一つ
 菅山が渡伯したのは大正三年三十二才の時で、成功するには海外渡航に限ると妻さと(六五)長男基(大正十三年サンパウロで死去)二男滋の四人で渡伯したもの
 二十二日は午後一時石神村役場を訪ね役場主催の懇談会に臨んだが、村民約百人にブラジル事情を語り同胞救援会の話では同会に対して寄せられた仙台市の加藤エツ子の感謝の手紙を声をうるませて披露、また救援会が在伯三十万の邦人から古着をあつめて故国へ贈った話などを村民は涙を流してきいていた、菅山は二十三日鹿島、二十四日は上真野、二十五日は中村にそれぞれ知人を訪ね二十六日白石に向い、再び渡伯するのは七月末の予定
 菅山鷲造談「今度帰ってきたのは全く私人としてで、墓参のこともあり、それに敗戦後の祖国を見たかったからだ、ところが東京に着くとたちまち私人としての行動がゆるされず恐縮したいま同胞救済会では五万枚の布団皮、百トンの綿を送ろうと用意したが輸出を止められてしまっているので救援会の仕事も一時中止の形だ、いま用意してあるだけのものは大統領にでも請願すれば送り出せるだろうが後が続かないので何にもならない、在伯邦人はいま日本のことを心配している、自分たちがブラジルの好意で戦時中も全くブラジル人と同様な生活をしてきただけに余計に祖国を案じているが自分は向うにいるうちに日本の雑誌、新聞を通じて知ったよりもいいので安心した」

 帰心矢の如し、という言葉があるが、祖国の土を踏んだとはいえ、すぐにも故郷石神に飛んで行きたい鷲造を待っていたのは東京での貴賓たちとの公式行事であった。国会で事情説明、皇族との会見で足止めされ、ようやくのことで原町に着いたのが4月20日午後3時。駅前の旅館に一泊して、石神に行ったのは翌日のこと。この20日に撮影した記念写真が原町教会のアルバムに残っている。すなわち日本を去った鷲造が祖国に錦を飾った時の気持ちとして、何を最も大事に持っていたかがしのばれる。古巣の教会で、ふるさとの人々、信仰のはらからとともに神への感謝を痛感していたのではあるまいか。
 昭和25年5月17日民友は、県都福島を訪問し知事らに歓迎される鷲造の写真を掲げて、戦災救援の郷土の英雄の訪問を報じて称えている。

サンパウロからララのおじさん
 福島で幼い踊に見ほれる
在サンパウロ氏同胞救援・・委員会委員長菅山鷲造氏–相馬郡石神村出身–は三十九年ぶりで帰省、日本救済のララ物資がどのように配分されるかを調査してこのほど来福したが県では十六日午後一時から日赤県支部会会館に大竹知事、丹野総務、坪井民生、穴沢社会課長らが出席して歓迎会を開いた、この日福島市内の児童福祉施設児童を代表して信夫保育所伊藤・・君(三つ)福島保育所・・千代子ちゃん(三つ)から花束を受けてのち福島保育所児童ほか十施設代表の可愛い子供さん達の演ずるレクリエーションに老いの眼をしばたきつぎのように語った
 ビラ・コンセッソン肺療養所の高岡専太郎博士のサナトリウム建設運動が起こされているので私は住宅と現金で四○○コント邦貨にして六百六十万円を寄贈して来た、子供達四人は何とか自立出来るようになったのでもし内地で倒れてもよいように私財を寄贈して来たが再びかの地に帰ることが出来たら社会事業のため今後も貢献する
戦後の日本がこのように復興しているとは考えられなかった

 村井は原町出身で、第二代、四代の在伯福島県人会長。同時期に郷里訪問した。 
 こんにち原町教会には来訪した鷲造を囲んで撮影した記念写真がある。日付は昭和25年4月20日。

 菅山鷲造(すがやま・わしぞう)
大正3年4月若狭丸にて渡伯、モジアナ、ドラデンセ両線よりイグアペ植民地に50町歩を求めて入植し後商業に転ず、アラサツーバに数年を過ごして聖市に進出す。守岡家族と同居す。救済会監査役、日本人会幹事長、普及会理事、同会長、大正小学校後援会会長、日本病院建設委員、祖国救援会聖市中央委員長兼幹事長、福島県人会顧問、聖州義塾理事、救済会会長、救済会顧問と云った公職を歴任し、社会の為に尽す処少なくなかったが、今はすべての公務から引退して静かに余生を送って居る。
(「大和民族伯国移民50周年福島記念誌」1955)

 鷲造は、この数年後に世を去った。

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