「靴屋の伝道者–渡辺伝先生遺稿と追悼」という古書を入手いたしました。
福島県双葉郡新山町(現双葉町)の愛沢家に生まれ、15歳で上京。結婚し後に妻の渡辺姓を名乗った。新聞配達しながら苦学し、あるとき、あまりの空腹に靴屋の店先にあった牛乳を飲んでしまったことから、店の主人に非をとがめられ、正直に謝罪したことから誠意をみとめられ、子供のない夫婦に気に入られて店の後継者となった。のち、ホーリネス信仰に入り、伝道者として頭角をあらわした。語学にすぐれ鉄道ミッション(ミス・ギレット師の通訳)の伝道者をつとめ、「鉄道キリスト教新聞」の編集記者となり、鉄道ミッション品川教会を開設(昭和8年)した。昭和34年、朝日新聞の第一回「朝日明るい社会賞」を受賞。昭和50年昇天。著書に「鉄道魂」(昭和16年刊)等。該博な知識たっぷりの説教録によって、生前の彼の言葉や語り口調の魅力がしのばれる。ずいぶん以前から相馬市で発行された「現代相馬人略伝」という書物によって渡辺伝の名前を知っていました。ただし「相馬市出身」となっているのです。

「相馬市出身。明治三十八年十六歳のとき、志を立てて単身上京。新聞配達、人力車夫などをしながら、苦学して早稲田大学を卒業した。苦学時代親交のあった靴屋の老夫婦に請われて渡辺家に養子に入ったが、相次いで逝去されたので、その後を継いで、丸の内の会社勤めをやめて、靴屋になった。(注。靴屋になったのは時事新報記者を辞めてなった。老夫婦の相次ぐ死後に、親族会議で財産一切を譲り受けた)
キリスト教を信じ二十七歳のとき新宿柏木のホーリネス教会で入信した。近所に来る国鉄大井工場の人たちに伝道する英国に本部をもつミッション在日総理の通訳をしながら、伝道に協力したのを始め、単独でも自ら全国を巡回して布教に努めた。一ヶ月の半分は鉄道関係伝道に励み、余は靴の新調、修理に或は大森、大井町付近の街頭伝道に専念した。いつも原典で聖書の研究を怠らず、ギリシャ語など七カ国語に通ずるようになった。
太平洋戦争の頃は、キリスト教も白眼視されるようなこともあったが、熱心に布教に努めた。氏の説教を聞いて強盗に入ろうとした或る刑余者が、翻然懺悔して、自首して出たというような有名な話があったりして、なかなか布教の力は大きかった。
特に縁結びの神とまで言われた程、結婚媒介のことにも熱心で、沖縄立法院議長安里千代氏を始め、今日まで四十年間に亘り、百有余組が結ばれ、一件も破談になったものはない。
自分の事を顧みず世の人のために、少しでも社会を明るくしようという強い信念に生き抜いて来た。」以下は朝日新聞の賞を受賞したことが付記されているが、全国で6人のうちのひとり。
同書は昭和37年8月15日発行。編集者 相馬市役所内現代相馬人略伝会会長代表者横山宗延。印刷 只野印刷所代表者江幡清。
これが、偶然にインターネットの古書店でこの本の存在を知った。相馬市出身というのは、無理がある。広義の相馬人というなら、その範疇に入るであろうが、相馬市民ではない。双葉町出身とすべきだろう。同書の目的は有徳高名な相馬人の顕彰であろうから、人物払底と思われたくない相馬人の贔屓の引き倒し、の一例かも知れない。
正確な史実を確定するため、照合し調査しているところです。
戦争中、天皇バンザイを拒否して最も弾圧を受けて殉教者を出した日本ホーリネス教団は、昭和8年ころに原町で、平野さんご夫妻のほか数人の信者のあったこと。戦後の一時期には、原町を代表する歴史があり、福音キリスト教会に合同したことが知られています。

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