昭和十六年の太平洋戦争もたけなわとなり、主人の弟や妹の婿も陸軍、海軍へと応召されました。そして主人は日立、東芝、中島飛行場から五名ずつの勤報隊員を与えられて軍需工場として生産に励みました。しかし戦争も、初めの勝利は遠のき悲報が日々かうようになり、終戦の年の八月七、八日の空襲で原町飛行場、夫沢飛行場爆撃のB29は、煙突から煙りが出て居る工場に小爆弾、焼夷弾七発を落として飛び去ってゆきました。その一発が住宅の一角で発火し、住宅の半分は焼けてしまったのです。その朝、異常なB29編隊の空襲を感じ、工場を休場して工員は帰宅させ、子供は山に疎開させていました。残ったのは私たち数人でしたので、怪我をするものもなかったのは幸いでした。しかしB29が飛び去るまで、燃える家を消火する事も出来ず、ただ茫然と眺め、低空飛行で旋回するB29を恐れをもって見上げているのみです。
 忘れられないのは、その一機からのぞいている顔は、真赤な衣服を着ている顔でした。「女が乗っている」と私には思えましたが、今になって思うとアメリカ人は男でも赤を着るからやはり男だったのでしょう。上から焼夷弾を落としながらの笑顔は、私にとって言葉では言い表わせない怒りでもない、不思議な感情が走った事は忘れられません。竹やり訓練、割烹着、タスキ掛けの国防婦人会など何と幼稚な事だったのだろうと、呆然とB29の去るのを眺めていました。やっと全機が去った後に、家の消火にかけつけてくれた町の人々も手伝ってくれました。でもい自宅は半分焼けてしまいました。
 私はその時、人々の心をまざまざお見せられたのです。心から同情してくれる人、今までの繁栄を妬み、小気味良いと表に現して見に来る人等々。私は人間の汚さを、そこでも見せられました。もうアメリカ人のみを責める気はありませんでした。人間は、みな同じように汚いのだなあと思いました。翌朝目覚めて焼け跡整理を始めた時、よしもう一度新しく出直せば良いと思いました。幸いにして荷物は疎開してありましたので、それほど不自由はありませんでした。そして八月十五日の終戦。負けても戦争の終わったことは嬉しかったのですが、八日の空襲は上層部では終戦が決定していただろうにと残念でした。

 解題
 ナルドの壺 主に従った婦人たち
 一粒社 昭和63年2月15日発行
半谷昌 保守バプテスト・福島第一バプテスト教会会員
母の生涯から出生家庭の概要、幼時の思い出からキリスト教との出会いから、相馬の異郷の旧家に嫁して言葉や習慣の違いに苦労しながらたくましく生きた著者が、信仰を貫いて救霊にいたり洗礼を受け、信仰を告白する文章「試練こそ恵み」を執筆したもの。

12月16日半谷孝寿さま
終戦71年後の今年、小高の空襲の駅前の銀砂工場と邸宅の半分を焼失したことも今知りました。
わたしは「原町空襲の記録」「原町陸軍飛行場ものがたり」という本を出しましたので、
ほぼ克明な日誌的事実もアメリカ側の「戦略爆撃調査団報告書」で判明しています。
昌さまが「八月七日、八日」と記述されたのは、確実に九日、十日のことでしょう。
常磐線とすべき箇所で盤の文字になっているのも、もともと他所から嫁に来られたので致し方ありませんし、信仰告白が大事の些事です。

B29と記述してあるのも、たんに米軍機とすべきところを、空襲はB29によるものとの思い込みでしょう。原町ほかの8月空襲は、米機動艦隊の艦載機による空爆でしたので、仙台や郡山などに行われた戦略爆撃ではなかったので、精確にはグラマン戦闘機、アベンジャー雷撃機、コルセア戦闘機などでした。

低空飛行による銃撃では、コックピットの中の操縦士の顔がはっきりと見えたと証言していますし、昌さんが目撃し記憶したパイロットが真っ赤な服を着ていたパイロットの記憶も、濃いオレンジ色の飛行服だったかもしれません。

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