大正年間の原町基督教会と日本基督教団
  
大正6年の知事への届出書 
 大正6年の福島県文書として、当時のキリスト教会の各地区信徒数届け書が保存されており、これによると原町における届け出信徒数は次のとおり。
 「大正六年二月福島県管内各基督教会信徒人数届け書綴」
〔信徒数届
一、信徒数 拾八人 内男 拾人 女八人 右 為御届候也 
大正六年二月二日
        原町日本基督教会講義所
         管理者阿部源義(印)
福島県知事川崎卓吉殿〕
 阿部源義は田村音次郎の子息で阿部市助の養子に入った人物。
 大正6年の基督教会信徒数届け書綴には原町のものがもう一枚ある。

原町基督教会信徒数届書
 〔信徒数届書
一信徒総数三九名 内男十九人 女二十人
 但シ大正五年十二月三十一日現在数也
右之通相違無之候也
 大正六年一月廿九日
 相馬郡原町
 原町基督教会牧師
  河村洋次郎
 福島県知事川崎卓吉殿〕

つまり、原町日本基督教会と、もう一つのデサイプル原町基督教会である。

 大正7年7月21日の福島民友に「原町日曜教壇」という記事がある。
 福島町の教会の日曜礼拝説教についての記事の隣に、それはある。

「原町基督教会 午前十時人格の基礎(多田五助)午後八時真心の要求(菊地牧師)原町日本基督教会 午前十時人生の三関門(室井牧師)」

 多田五助つまり、のちに原町基督教会の牧師となる吾助が日曜礼拝の説教を担当しており、菊地牧師は夕拝の方を担当している。多田は明治24年生まれだから、大正7年には28歳。神学校に通っている(大正5~9年)頃だ。菊地牧師は多田より2歳年上の30歳。貧困を逃れるために陸軍に入隊したという。同世代であるうえに若松の二十九連隊で兵役を経験している多田との共通点がある。デサイプル教会史では菊地は聖学校を卒業してすぐ東北の福島、米沢の教会を経て、大正7年10月から原町教会牧師になったとあるが、この時夏期伝道のため白河教会から原町に来ていた。
 原町のような小さな町の教会の日曜礼拝の記事が新聞紙上に登場することは極めて珍しい。福島教会の礼拝の説教題との関連で原町教会にも言及があることを考慮すれば、この記事を書いた記者が福島教会の信者であるケースも考えられる。のちに述べるように多田吾助と民友との関係は昭和15年の民友消滅の頃まで持続する。 
デサイプル教会史のつづきを追ってみる。

 河村、菊地、千葉牧師 大正二年一月、江川は大阪木津川教会の牧師となり、仙台の婦人伝道師中川のぶが原町に転勤して来た。河村、菊池、千葉牧師教会の無牧中は、長老の佐藤政蔵が牧師代理のようなことをしていた。(聖書之道によれば、彼は三九年一〇月江川牧師が離任した直後も牧会の任に当たられ」と報ぜられていた。)
 
 中川のぶ  女子聖学院神学部、第一回(明治40年6月)卒業者。女子聖学院は青山学院神学部女子部に合流。郷里鶴岡で高木熊次郎牧師より受洗、仙台尚納女学校に入学。ついで女子聖学院神学部(三年制)に移り、二年後に卒業。彼女だけ早く卒業したのは、入学前にマデン夫人より個人的指導を受け、伝道補助の仕事に従事していたためである。最初仙台、ついで原ノ町で婦人伝道者として働き、白幡、ついで桜田に嫁した。
 
 大正三年四月、河村洋次郎牧師が福島から原町へ転任して来た。河村時代の業績については記録が残っていないが、彼はその後病気になり、大正七年四月辞任、その翌年天に召された。
 大正七年七月、白河講義所の菊池次郎牧師が夏季伝道のため原町に来て駐在し、九月から東北学院に編入学、土曜から日曜にかけて原町教会の伝道を助けた。菊池は同年一〇月から牧師に就任した。
 大正九月七月、菊池牧師は大阪天王寺教会へ転勤し、その後に同年神学校を出た千葉儀一牧師が着任した。
 大正一○年五月~一一年四月の教勢は、役員は長老一、執事一、会員数は二九名、受浸者一一名、婦人会一一名、日曜学校生徒出席平均三五名、献金総額二七七円となっていた。
 大正一二~三年度ミッション報告、「この年、教会堂が拡大され、新しい洗礼場が追加された。教会は牧師謝礼負担額を増加するため献金をふやした」(P410)。
 
 河村洋次郎  デサイプル教会史は「初期のわが教会で最も活躍した伝道者の一人。」と評して教役者の略伝に記す。
「君、人となり魁偉、真卒にして辺福を修めず、顎下に美髪長くたれて襟を掩う。人に接し、物に対する常に気充ち悦び溢る。音吐鐘の如く、談論客を驚かす。時ありて哄笑すれば膝上の猫児恐らく震死せん。状貌かくの如きも眼底涙多き温然たる快男子なり」(聖書之道、明治33年10月)」

 河村洋次郎

 福島新町教会創立百周年記念誌は、
〔河村洋次郎 二代目牧師(一九〇六年六月~一九一四年四月在任)と記述する。
 巻末の会員名簿には、大正3年(1914)の欄に11人の受洗者の中に河村てる、河村光也、河村のぶ、の3名の名もある。子供たちである。
 洋次郎の略歴を引用してみると次のようだ。
〔一八五七年(安政六年)、奥州寺池に伊達分家の、武道指南役をしていた父の利貞の長男として生まれ、十九歳のとき結婚。その後、明治法律学校(明冶大学の前身)で法学の勉強中にモーセの律法に接し、フルベッキ師、押川方義に導かれた。
 「代言の業は人権を保護する一要務なるべきも、要するに極の事のみ。宗教はこれに反し、人に善を教え、其責任を全ふして生命の途に入らしむべき積極の業なり。宜しく彼をし之を取るべしと。遂に律書を棄て聖経を執り、また伝道業に一身を献げんことを誓えり」、と「聖書之道」(二九号明治三三年一〇月二〇日)には、髭をたくわえた全身の写真入りで、その略歴が紹介されている。

 一八八八年明治二一年、押川方義より受洗し、仙台払教会に所属した。その後二年間、宮城県の赤生津(あかうづ・ここは郡中のナザレと言われた)で農桑のかたわら自給伝道をしたが、実りがなかった。
 一八九二年一月末上京した本郷西片町講義所でスミス師から浸礼をうけた。一年後にガルスト師より専任伝道を委嘱された。一八九七年伊豆野、一八九八年には佐沼に伝道所を開設した。一八九八年九月、マデン師が仙台講義所を開設したとき、最初の牧師として迎えられた。一年後赤生津に帰って、一九〇四年に会堂を建設した。
 ところで彼は、一八九九年~一九〇〇年頃から年会のたびごとに男女神学校開設の必要を力説し、その実現に努力した。
 一九〇六年六月、福島基督教会へ、次いで一九一四年四月原ノ町教会に転じたが、一九一八年四月病気のため辞任、一九一九年二月仙台の東北大学病院で召された。満六十歳であった。
 なお、『日本基督教団福島新町教会創立九十周年誌』には、孫の川村邦男氏が寄稿されている。
 河村洋次郎の昇天 
「六尺大の体躯に十字の紋をつけた木綿の羽織を着、聖書や伝道用のパンフレットを入れた小箱を巾の広い真田のひもで結び、これを首から下げて闊歩し、バプテスマのヨハネと呼ばれていた名物男」(平井庸吉)、明治二十五年に日基からわが教会に転会し、宮城県で長く伝道し、のち福島を経て、原町教会に在任中、病に倒れ大正七年四月辞任、八年二月仙台の東北病院で天に召された。満六一歳。九人の子供のうち上の三姉妹は女子聖の教師、第五女は菊池次郎牧師に嫁した。
 
 河村三姉妹
  河村洋次郎牧師の長女きよみ、次女しまよ、三女とよの、の三姉妹はいずれも仙台のバプテスト系尚納女学校出、きよみは明治三四年六月卒業して仙台の婦人伝道師になった。渡米してドレーク大学に学んだ。次女しまよは三六年七月卒業して秋田の婦人伝道師となり、三八年四月スチーブンス夫人の秋田幼稚園開設を助け、のち京都ナザレン教会の永松牧師に嫁し、牧師永眠後に渡米。三女とよのは明治四一年六月、首席で女学校を卒業後、福島で父の伝道を助け、44年から女子聖の音楽、聖書教師となる。その後在米の富安氏に嫁し、客地で永眠。五女てるは菊地次郎牧師に嫁した。

白河の菊池牧師、原町へ  原町教会の河村洋次郎牧師は大正七年四月病気のため辞任、その後には一〇月白河の菊池次郎牧師が着任した。菊池は原町で学校教師をしていた河村牧師の五女と結婚した。

 菊地次郎  大正7年10月~9年在任
 明治26年1月、宮城県登米郡登米村で菊地八郎の次男として誕生。二人の兄姉がいた。菊池家は伊達家の柔剣道指南役、八郎は農蚕業に従事していたが、明治43年の北上川大洪水のとき堤防工事中に死去。長男寛は軍人、長女八重は登米教会(成田牧師)に出席、のち渥美、東京青山等の育児院で働く。次男次郎にはこの姉からの感化が多大であったようだ。
 小学校卒業後、上京して勉学の途についていたが、病気となり帰郷。行商人にだまされ、東京で働かされたが、帰郷してからは登米教会にしばしば出席。聖神入学当時の履歴書によれば、彼は明治41年、日本基督教会のクック宣教師から受洗した。
 貧農から脱出するため44年12月、陸軍に志願、大正元年、病弱のため除隊。小学校代用教員をしながら登米教会につながり、成田牧師の勧めで聖学院入学。大正6年卒業。直に福島県白河、福島、米沢教会等の牧師を経て7年10月原町教会の牧師に就任した。
 大正9年6月、東京で平井牧師の司式で河村洋次郎五女、福島女子師範卒で原町小学校教員のとき知り合った河村てると結婚。
 肺結核とたたかいながら伝道につとめ、大正13年10月6日、33歳で天に召された。死因は腸結核だった。

 菊池てる  河村洋次郎の五女。夫の死後、てるは大阪で教員をしていたが、自分も肋膜炎になり、帰仙。子供を育てるため教員をしたり病に休んだりを繰り返し、昭和21年に53歳で夫の許、天に召された。

 千葉儀一 大正9年6月~15年在任
 仙台藩士千葉五郎の長男として仙台市東大番丁に生まれ、東北中学在学中は柔道部主将として活躍した。軍人志望だったが、柔道で負傷したため転向し、明治四〇年中学卒業後は一か月仙台青年会英語学校で学んだ。洗礼は三九年四月、東三番丁教会(組合)の片桐牧師から受けた。
 大正三年四月、平塚勝子と結婚、直ちに上京して常磐生命に勤務した。九月から東京物理学校第二部に編入学したが、四年二月に中退した。上京してからは、新宿の北裏基督教会(四谷ミッション所属)に出席、畑中仁吉牧師から受洗して転入会した。
 常磐生命では宴会が毎日続き、次第に耐えられなくなった。同僚の平炉之助も同様の感を深くしていた。やがて、二人は召命を感じ、会社を辞めて神学校入学を決意した。しかし当時すでに二九才、妻と子供をかかえていたので、親や周囲の者から強い反対が出たのはもちろんである。
 反対を押し切って聖学院神学校に入学したのは大正五年一〇月であった。聖学院に入ったのは、北裏教会がミッションとは違うが、同じく基督教会派に属していたためで、畑中牧師の長子岩雄はすでに一年前入学していた。平伊之助はメソジストであったので青山学院神学部に入学した。
 この年、聖学院神学校には従来に例を見ない八名という多数が入学した。在学生は諸教会で伝道奉仕を要求されたが、千葉は四カ年の在学期間中王子講義所に住み、ここで伝道した。九年六月に卒業、原ノ町教会へ赴任を命じられた。〕

 〔原ノ町には寄席を改造した公会堂があったが、集会はさびしかった。彼は当時のことを後年つぎのように語っている。「あの頃の苦労は、みんな相当のものだった、ボクも原ノ町に赴任して行った時、家内と長女がチフスにかかってね。隣の町にいた友人の医者が、すぐ入院させるという。娘だけは入院させたが、長男と次女がいるので家内は入院出来ず、ボクが看病した。あの頃は米の飯を食ったことなどあまりない」。〕
千葉儀一牧師
 大正15年3月、大阪玉出教会に転任。会堂もなく会員も少なく行商をして会堂建設するなど苦難の伝道生活だった。デサイプル派の最後の年会では総務委員会に代わる実行委員会が設けられ、千葉はその委員長(最高責任者)選ばれ、日本基督教団設立に際して創立委員の一人にあげられ、戦後は教会復興委員として奔走、引退教職者の老人ホームの建設に尽力した。

 原町初の幼稚園

 大正七年発行の岡和田甫編「相馬原町案内」には、短期間ではあったが原町で最初に経営された幼稚園と日本基督教会について次のような紹介がある。
 〔▲原町幼稚園及日本基督教会 幸町に在り、教会は明治三十五年二月二十日の開設にして現在信者二千余名あり、大正七年一月より幼稚園を兼設す、現在児童五十余名月謝三十銭、児童教育に貢献す、近く町費補助園となる筈、現在牧師室井長治氏、保母佐藤春衛嬢熱心事に当る。〕
 原町初の幼稚園は七年から九年までの三年間つづいた。小林栄一、片野桃子らは第一回の幼稚園児。
 信者二千余名、というのは二十余名の誤植だろうが、三十五年開設というのも外部から教会を見ての記述ゆえの誤謬だろう。
 佐藤政蔵の子孫には、大正時代の原町幼稚園の記念写真が三枚残されている。これが原町初の幼稚園である。

 注。昭和43年刊の原町市史は、日本基督教会(幸町教会)と原町基督教会(下町教会)との区別がつかずに、原町基督教会が幼稚園を経営した、と混乱した記述をなしているが、これは誤り。幼稚園を経営したのは日本基督教会の方である。

大正期の日本基督教会

原町初の幼稚園
 成瀬稿65周年史。〔下町キリスト教会には千葉儀一氏が着任、大正六年(一九一八年)には佐藤あきの婦人伝道師が原町教会に着任、次いで青年牧師室井長治氏が、東北学院神学部を卒業して着任し、教勢の挽回に努めることに成り、原町のキリスト教界にも活気を呈するに至った。室井牧師は佐藤あきの姉と共に幼児教育の必要を痛感して原町教会内に原町最初の幼稚園を開設し、約五○名の園児を収容して、幼児教育に当たった。これは原町市に於ける幼児教育の草分けであって、町民の期待するところであったが室井牧師は約二年間で他に転じ、佐藤あきの伝道師も原町を去ったので、幼稚園も閉鎖の止むなきに至ったことは惜しんでもあまりあることであった。そして教会は再び無牧時代に入り、教会堂は日々荒廃し、教勢は再び低下して行ったが、不思議なことには、その間にも何等かの形に於て教会はキリストの福音を語り続けていたのである〕

 重複するが念のため同じ時期の部分を成瀬稿75年略史から次に引用する。
 「大正五年(一九二八)には原町に石川製糸工場が創業し、原町産業界に雄飛することになったが同工場主石川保次郎夫妻は熱心なキリスト教徒で工場内でキリスト教集会を聞き、従業員に対する伝道は勿論進んで町民に対しても宣教活動を実施し、その感化影響は非常に大きいものがありた。同氏はメソジスト派に属していたのでその方面の牧師、名士を招じて度々伝道集会を開催し、りよ夫人は婦人矯風会原町支部の結成に力を尽し、キリスト者婦人を中心に町内の有力婦人も協力して純潔運動を実施した。

 4 教会の再出発
 大正六年(一九一七)東北学院神学部を卒業した室井長治及婦人伝道師佐藤あきのが着任して教勢を立て直すことになり久しく不定期であった教会の諸集会を定期に実施した。
 下町キリスト教会には千葉儀一牧師が着任して原町キリスト教界も漸く活気を呈して来た。室井は佐藤あきの伝道婦と共に幼稚園を開設して約四〇名の園児を収容し幼児教育に当ったが、これは原町における幼児教育の草分けで町民の期待するところ多かったと思うが室井牧師は約四年を任して宮城県登米教会に去り、佐藤伝道婦も原町を去り、短期間で閉鎖の止むなきに至ったことは惜しんでも余りあることであった。そして原町教会は再ぴ無牧時代に入ったが町内には三つの教会即ち石川組の職場教会、下町キリスト教会、そして当原町教会が存在し伝道が進められたことは幸であった。
 大正初期と言えば米価騰貴による米騒動が全国各地に波及して軍隊の出動にまで及び、政治的には普通選挙運動が盛んになり社会科学が行動化し、水平社や日本共産党の結成を見、自由民権運動が日に日に高まりつつあつた時であつた。
 大正九年(一九二〇)には小高教会の杉仙牧師は関西に去って賀川豊彦等と農民解放運動に投じ、後任の阿曾沼幸之助牧師は病弱で充分な宣教活動が出来ないので大正十年原町教会に婦人伝道師林ふみが派遣されて原町、小高の教会を助け婦人層に働きかけ着々その成果をあげていた。
 翌十一年(一九二二)東北学院神学部卒業の成瀬高が着任。小高、原町、浪江三教会を兼務し、林伝道婦がこれを助けた。成瀬は原町教会堂の修理を行ない、定期集会を再開し文化活動も活発に行ない教勢の挽回に努めた。中村教会の山野虎市牧師、同教会の鎌田昌次郎等と共に日曜学校相馬部会を結成して少年少女の宗教々育を盛んにし、大正十三年(一九二四)の夏期には相馬地方全教会合同の夏期臨海学校を新地磯浜海岸に開校して約六〇名の学童、青年が参如して四泊五日の合宿生活を行なつた。
 参加した教会は中村、原町、小高、亘理の各派六教会に及び参加した牧師指導者は山野虎市牧師(中村)結城国義牧師(亘理)千葉儀一牧師(原町下町)成瀬高牧師(原町)、石川保次郎夫妻(原町メソジスト)木幡茂男(小高)、松本政隆(神学生)岩間よし(亘理)門馬あい(中村)等であつた。
 然し大正十四年(一九二五)には千葉儀一牧師は大阪玉出教会に、中村教会の山野牧師は東京に転じて沖野岩三郎主幹の児童雑誌「金の船」の編集主任に就任し、成瀬牧師も会津高田教会を経て新たに公布された少年法による保護官庁に就任のため大阪に去り、各教会共新しい時代を迎えて昭和時代になるが、原町教会には青森県野辺地教会から佐藤信雄牧師が着任し、諸集会を指導し、大正十五年(一九二六)には東北中会の前進伝道を実施して斎藤一、佐藤貞一両牧師の特別伝道等が行なわれた。

 佐藤信雄牧師

 大正末期の原町教会の教勢は資科がないが、会員数十五名礼拝出席(平均)十名、夕拝出席(平均)十二名、日曜学校生徒在籍七〇名、出席平均六〇名で、小高、浪江両教会を兼務して週一回づつ出張した。尚林伝道婦は大正十三年東京に嫁し、一時鈴木瑛子が伝道を助けた。」

 鈴木瑛子 小高町の鈴木瑛子とは瑛女の号の女流俳人。昭和2年の東京朝日新聞福島版に瑛子の「女性随想」という記事が載っており和歌が5首掲載され「相馬地霊社同人で鈴木安蔵君の姉君。宮城女学校の出身」との紹介がある。鈴木安蔵については解説がないから、解説抜きで県内の読者には知られていたのがわかる。
 筆者は高校生の時に晩年の瑛女を小高の家を訪ねて会ったことがあり句集を頂いた。知的で温厚な精神はつらつとした女性だった。
 この姉弟を導いたのも両親のキリスト教信仰の種子であった。

 小高伝道所80年史「鈴木安蔵の周辺」へ

 日曜学校の発展

 相馬市史に収録された「相馬のキリスト教」の章の記述も原町教会の75年略史に酷似しているので成瀬氏の原稿らしいが、75年略史には「海浜学校のうた」は載せていない。自作を自教会の沿革史の載せることを遠慮したのだろう。大正時代の浜通り地方の各教会の子供たちの姿が見えてくるので、その部分を引用しておく。

 大正十三年の夏期には仙南、相双地方全教会合同の夏期臨海学校を新地磯浜海岸に開校して約六〇名の学童、青年が参加して四泊五日の合宿生活を行った。参加した教会は中村、原町、小高、亘理の各派六教会に及び参加盟の各教会日曜学校教師の講習会を兼ね、宮城、福島両県下の信徒修養会が開かれた。
  × × ×
 海浜学校のうた 
   大正十三年新地磯浜海岸
          なるせたかし作詞
一、翼もかろき雲に乗り
   緑の葉ずれ波の音
    潮見の丘にわれら集い
     み神のみ旨をたたえ歌う
二、豊かに繁る夏の草
   男々しく育つ若きいのち
    いざやうたわんよどみなく
     小鳥のうたに浪の音に
三、波間に浮ぷ白き鳥
   み空の極みにかかる星
    み神の愛に目ぱたけば
     み国の園ぞしのばるる
四、たそがれ色のほほえみて
   海と丘とにかかりなば
    静けきうたに送られて
     家路に帰る子等の群れ。
       × × ×
 日曜学校は更に活気を呈して来たので、校旗を造る議が持上り、教会員(主に中村教会)の協力により五十円の寄付が集ったのでこれで東京の専門店に注文した。そのデザインは日曜学校生徒から募集したところ沢山の応募があり、宇津木牧師、鎌田、四本松等が審査し最も優秀として認められたのは冨田重幸君のものであった。旗は楯形のもので真紅のえんじ地の中央緑の葡萄の葉の上に銀の十字架があり、その左右に鳩を配し、旗の頂点には鍍色の星をつけたものである。赤は情熱、緑は希望、鳩は平和、そして十字架はキリストの愛を象徴したものである。校旗が出来てから、又相馬郡内の各教会の日曜学校大会が中村の長友グラウンドで開かれた。エンゲルマン宣教師を迎え校旗を先顕に堂々と入場した。例により野外礼拝、運動会等があり、各教会の大人も子供も一つとなって睦み親しんで楽しい集いがもたれた。
 その翌年(大正十四年)の大会は原町の無線塔の下に集まり、会衆は更に増して、当時の写真を見ると約五〇〇人の参加者があり盛大なものであった。

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