1の3 疎開者
 昭和19年半ばごろになると激しくなったアメリカ空軍の爆撃を避けるため東京や横浜から多くの小学生や中学生の子供が田舎に転校してきた。いわゆる「疎開」である。私のいた小学校は当初一クラス67、8人規模であったが最高時には75人まで膨れ上がった。全校では各学年8クラスだったので合計するとかなりの数に昇ったことになる。転入生は言葉使いがいわゆる東京コトバであり、また、振る舞いもあか抜けしていて上品でまるで「外国人」だった。毎朝、朝礼で「疎開は国のた 国の為め 休まず元気で励むだよ、そうだそうだー やりぬうくうぞー」などと疎開を肯定し応援する歌を歌わされていたが、現実、本人たちは一夜にして見ず知らずの土地に半強制的に移送され、明日からはそこで生活せよといわれても子供心に不安でいっぱいであったことだろう。彼らはむやみな争いごとを避けようとなるべくオトナシクしていたが、受け入れる側の子供としては彼らの上品さがうとましく、なんのかんのと言ってナンクセをつけイジメに走ることも多々あった。
 私の家の両隣の瓦屋さんにも疎開者が来た。北側の早川さんには東京から母と娘二人、南側の竹島さんには物置を手直ししてお爺さんと孫2人、西側の高野かわら屋には東京から母と娘が来た。後に早苗というその娘は従妹と御本陣の堤で私達から少し離れたところで泳いでいて二人共溺れて亡くなった。東側の山向こうには東京から鉱山技手が移り住んでいたが昭和二十年八月九日空襲でグラマンの直撃弾を受けて破壊された。
ちょっと南の方に遠藤避病院があり、疎開してきた人達も数人入院していた。そこに同学年の門馬秀子(昭和19年頃立川市から疎開してきた)の父が肺結核で入院していて、いつも私が母に命じられて生みたての卵を届けに行っていた。当時肺結核は不治の病とされていたが、戦後食料事情が良くなってきたのと、ペンシリンがアメリカから輸入されて改善された。病棟が池の周りの松林の中に十軒程点在していて環境の良い所であった。そこの遠藤病院の長男は原高を一年休学し私と同級になった。
 疎開者や私達も含めて、学校の身体検査では九割方の者が「戦争栄養失調症」と通信簿に書かれていた。親たちがそれを見てどうしょうもなかったようで、私は両親に小中高校時代に勉強をしろと言われたことは一度もなく、通信簿を見せろと言われたこともなかった。兎に角生きることが精いっぱいの時代だった。
戦争中、石炭や鉱石を掘る労働者として半ば強制的に連れてこられた朝鮮人もかなりいた。彼らは主に炭鉱のほかダム工事などの肉体労働を担っていた。彼らの子供も小学校や中学校にきており机をならべて勉強した。しかし世間の風潮として朝鮮人や中国人(主として台湾人)をサゲスム機運が蔓延しており、われわれ日本人の子供もそういう大人の影響を受け自然と朝鮮人たちを馬鹿にする態度をとるようになった。また、朝鮮人たちと仲良くするとそれを理由に仲間はずれにされたり、イジメの対象になった。私は幸いにも上に兄たちがいたのでイジメに会うこともなかったが子供心に気の毒な思いをしていた。

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