土田熊治牧師

明治三十八年(一九〇五年)五月土田熊治牧師が着任し、茲にに初めて専従の定住牧師が与えられることになった。土田牧師は双葉郡幾世橋村にも伝道を開始し教勢の拡大につとめたが、この年に小高に応援伝道に来た人々は東北学院教授の笹尾粂太郎博士、宣教師ワイドナー夫人、東北学院長シュネーダー博士等があった。殊にワイドナー夫人は婦人大会を開いて、八○名の聴衆があり、小高町手八景の機業工場で女工員の集会も本年のクリスマスから開くことに成った。
この年のクリスマスには四百名の来会者があり、本年中に受洗した人々には渡辺仙蔵、山岡隆規、伊藤市兵衛、志賀清寿、入江ツギ(以上梶原教師)原田兼太郎、鈴木雄八(以上シュネーダー博士)等があり会員総数四十九名(内男三二、女一〇、小児七)となり、礼拝出席平均十七名、祈祷会十三名、日曜学校生徒六〇名であった。
明治三十九年(一九〇六年)四月土田牧師は原町講義所に転じ、小高には毎週出張することに成り、原町と小高とは協同の歩みをすることになった。
この年斎藤壬生雄、佐々木純一、吉田亀太郎の諸氏が度々来高して伝道集会を行ない受洗者も横山寅蔵、佐藤清吉、阿部ヨシ、渡辺クラ、石川イチ、石川シウ(以上斎藤牧師)あら林太邸、高橋ツネ(以上佐々木牧師)など一〇名が加えられた。十一月には日曜学校生徒の父兄会を開催して七〇名の出席者があり、十二月には貧民クリスマスを催して貧困家庭の人々を招待し七○名の出席があった。
明治四〇年(一九〇七年)一月から聖書研究会を定期に開くことにし、婦人会も毎会二〇名、日曜学校は七、八○名の出席者があった。
然し一方会員の中には信徒としての義務を欠き信仰回復の見込のない者が生じ、教会々議は十一名に除名の処置をとった。そして明治四十一年(一九〇八年)十二月には土田牧師は秋田教会に転じ、佐々木純一牧師が一時小高に着任したが翌四十二年には原町に転じ、小高講義所は杉山牧師を迎えたのである。

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