数年前突然一人の紳士が彼の教会を訪ねて来た。紳士の名は山田禎策といって、岐阜県養老郡池辺村の豪邸であった。日露戦争後山田は鉱山業を創めようと思って、その番頭を東北に派遣して諸所を物色せしめた。所が番頭が相馬郡の鹿島駅の一旅舎に泊って、宿の主人から八沢浦という大きな湖水の話をきき、その湖水を乾して田にしては如何であろうという事を報じた。
 山田は早速専門技師をつれて八沢浦に行ってみた。八沢浦は旧相馬藩の塩田のあった所で、東西一里半、南北十余里の一大湖水であって、開闢以来村々の小川の流れを吸込むばかりで、並木松のある砂堤に隔てられ、水を海に放流する事が出来ない。落ち込む一方で吐き出す所がないので、この近辺は大食漢のあだ名を八沢浦というのであった。
 技師の測量によると、確かに湖水の底面は海面より高い。その東の方に水を導いて隧道を穿てば水では悉く海に流れ出るに相違ないとの事であった。早速山田は村民と交渉談判してこの湖水を他にする計画を立てた。
 これまでも事業家の何人かが此所に投資して人ㇽも成功しなかった。村民の或者は「馬鹿が又あの淵へ塩を捨てに来たぞ」と言って笑った。果然山田は八万円を投じてあらゆる方法を講じたが、どうしても目的を達しなかった。山田は失望落胆して事業を中止しようと思った。この話を聞いた彼の弟服部正夫は名古屋から書を飛ばして慰め、「百折不撓事業を成功せられよ。しかしかかる時人間には堅き信念の必要がある云々」といってやった。服部は熱心なクリスチャンである。山田は弟の勧告に従って、付近の小高町にある基督教会を訪問したが、そこに居た青年牧師は即ち杉山元治郎であったのだ。
 杉山が農学校出身の牧師である。山田は農業の計画で失敗した求道者である。両社の間には膠漆の交りが忽ちに結ばれた。杉山は其の後屡々八沢浦に行って、技術者の出崎猪之助と力を合せて諸種の画策をした。

つづく
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