昭和二十四年(一九四九年)の十一月、私は次女(八歳)を連れて仙台の大学病院に行くべく汽車に乗りました。車中は混んでいましたが、ひとつ空席がありました。一人の外人と日本人の前の席です。私は一寸躊躇しましたが、思い切って座りました。外人は片言の日本語で建築の話をしていましたので、私は「アメリカの建築技師だわ」と思っていました。暫くすると次女は小雨の降りつづける窓に向かって「雨、雨降れ降れ、母さんが……」と歌い始めました。私はアメリカ人がうるさいと思わないかと心配でしたが、そのままにしていました。相馬に来たとき、相手の日本人は降りて行きました。するとアメリカの人が「お上手ですね」と声をかけて来ました。それからアクセントの違う日本語ながら、話しだして、鞄から一冊のライフの雑誌を出すと、実りの農夫の絵を見せながら話し続けます。全部は解りませんでしたが、その中の「神様アリマスネ」の言葉が私の心に深く響きました。仙台で別れても私はその片言のアクセントの違う「神様アリマスネ」の言葉を忘れることはできませんでした。 
 家に帰ってもその事を考え続けていました。娘時代に母が語ってくれた真の神様、又、聖書の学びを想い出したのです。聖書を読みたい、教会へ行きたいと思うようになりました。しかし結婚の時、お飾りのように持ってきた聖書は空襲で焼いてしまっていました。当時、小高の教会は閉館していたのです。年が明けても私の願いは叶えられませんでした。が、一九五〇年三月五日、姑と主人が一緒に上京し、私は駅のホーム迄見送って改札口を出た時、眼前に畳一畳敷位の看板が目に止まりました。三月六日から九日まで休館になっていた日本キリスト教会で「伝道集会」があると書いてあります。柿崎正師、フランク・ホレチェック師という名前が書いてありました。私は行きたいと強く思いました。幸いにして義姉も行っても良いと言ってくれたので、一九五〇年三月六日の夜、私は義姉と二人で、教会の門をくぐりました。
 教会といっても、田舎のそれも何年も閉ざされていた教会故、古びていました。私たちが入っていった時には、子供たちをまぜて、三〇人位の人が集まっていました。固い木の椅子に腰掛けた時「よくいらっしゃいました」と言う奇妙なアクセントの外人の声に、はっとして顔を上げた私のまえに立ったやさしそうなその顔を見た時「あっ」と驚きました。それは昨年の十一月、車中で会って私の心の中に神の思いをとどめたあの「神様アリマスネ」のアメリカ人の建築技師(私の想像)だったからです。
 やがて、古びたオルガンとホレチェック師のアコーデオンの讃美歌が流れだしました。素晴らしい音色にうっとりとして聞いていました。若い牧師、柿崎師の司会、メッセージが始まりました。それは娘時代に教会で聞いた讃美歌と違って聞こえました。
 半谷昌「ナルドの壺」p124

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