双葉にバプテスト宣教師
 浜通り地方で天幕伝道
 
 ホーリネスの岡田静雄牧師は、原町をおおむね汐子夫人にまかせ、自身の郷里双葉郡地方の開拓伝道に従事。戦後初の双葉での福音を述べ伝える声となった。
 そこへ、昭和22年バプテストの牧師ホレチェック師がアメリカから招請されてやってきた。岡田師は同氏と共同伝道をすることになった。
 
 バプテストとは
 強制による信仰を否定し、カトリックなどのように幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白によってバプテスマ(洗礼)を受けることを主張するのが、バプテスト派である。同派では、「聖書」に根拠を持たない信仰や生活規範を認めない。また、強制的な信仰を否定し、本人の信仰告白によって受洗した者のみを信者とする。つまり幼児洗礼には本人の信仰告白がないためにキリストとして認められないというのである。信仰告白こそ救いの唯一の決定であるとしていることから、聖餐も二義的に見なすことが多い。
 教会制度に関しては、プロテスタント派の根本主張のひとつである万人祭司説に基づき、教師と信者の身分上の差は認めない。真に霊的な賜物を与えられた者だけに教師の資格があるとしている。
 また各教会は自主独立しており、それを統制する権威を認めず、政教分離を原則とする。ただし、主義王張を同じくする連合組織のような教会間の協力は是認する場合もある。国際的な組織としてはバプテスト世界連盟があるが、加盟していない教会も多い。 
 バプテスト教会は歴史的にはカルヴァンの改革主義の影響を受けた急進的なアナバプテスト(再洗礼)派の流れの上にあるが(12世紀のカトリック系異端の民衆宗教運動組織、ヴァルドー派の影響を指摘する学者もいる)、直接的には初期のジョン・スミス、さらにトマス・へルウィスとジョン・マートンらによって今日のバプテスト教会の基礎が固められた。したがって彼らをバプテスト派の事実上の創始者と見てさしつかえない。
 英国国教会の元牧師ジョン・スミスは、バプテスト派の教説を唱道、1608年に迫害され、オランダへ移住。翌年、同地に最初のバプテスト教会を設立した。
 その後、ヘルウィズとマートンがバプテスト派の本流を継承、1612年にイギリスヘ帰国し、同国最初のバプテスト教会を設置した。その教説は、カルヴァンの救霊予定説に反対したアルミニウスの神学説を摂合したもので、ジェネラル(一般)派といわれた。
 イギリスではカルヴァンの予定説に即したパティキュラー(特定)派のバプテスト教会も生まれ、互いに競い合う中で、バプテスト派が確立していった。
 バプテスト派は1639年にアメリカでに伝播し、信仰覚醒運動と結びついて発展し、現在アメリカ最大の宗派として大きな影響力を持っている。
 アメリカのバプテスト教会は、全体としてパティキュラー派が支配的で、エバンジェリカル(福音派)の典型とされるが、信仰傾向の振幅の差が大きい。すなわち、排他的でファンダメンタリズム(原理主義)の指向性がきわめて強い「南部バプテスト教会」系と、比較的穏健な北部の「アメリカン・バプテスト教会」系の2系統がある。
 数の上で優る前者は「聖書」の記述のすべては絶体無謬であるとし、進化論に反対、処女懐胎、キリストの奇跡や復活も歴史的事実と主張、政治にも隠然たる影響力があるとされる。
 後者は前者ほどではないが、それでも個人的な回心体験を強調、信仰と生活の唯一の基盤としての「聖書』と伝道を重視し、中産階級の保守勢力として急速に勢力を伸ばしてきた。
 ヨーロッパでは、ドイツのヨハン・オンケンの1834年からの伝道活動によって進展。日本伝道は1860年からで、日本バプテスト同盟と日本バプテスト連盟が主流となっている。信徒総数は北米を中心に世界で2500万人とされる。

 福島第一聖書バプテスト教会40周年記念誌「ガリラヤに福音の灯」には同教会の最初を次のように記されている。

「1 胎動
 A 旧大野村について
 今でこそ東京電力「福島第一原子力発電所」があるとはいえ、大野と言えば、当時過疎の村として有名な、人口2700人の寒村であった。今でさえ人々は、大野の町に降り立って、こんな田舎にキリスト教会が本当にあるのかと言って驚く。現在、旧大野村と熊町村が合併してやっと人口1万となったようなこの田舎町に、しかもかつて何の産業もなかったような時に、よくぞ福音の種が蒔かれ、そしてキリストの教会が立てられたものだと、私達は本当に驚き、そしてまた感心するのである。ホレチェック師が当地で宣教を開始された1947年(昭和22年)頃には、人口2700人とは言っても、駅前通りは一本筋の人口わずか500人、加えて、大川風野上、下野上のちょっとした町並みを付け加えた位の正に当時「福島のチベット」と呼ぱれるにふさわしいような、文字通りの寒村だった。現在教会堂のある町内もその頃は見るからに閑散とした野原・畑地で、家は2、3軒しかなかったのである。
 しかし、そんな敗戦後間もない、混沌としたこの貧しい田舎村にも、正に福音宣教の夜明けが、到来しようとしていた。そして殊更当時当地には、敗戦のショックと貧しい生活の中から、魂の飢え渇きを満たし、心の空白部分を満たす福音を欲し、受け入れたいと願う、いわゆる熟して刈り入れるぱかりとなって色づいている魂が、数多く供えられていたのである。主は深い摂理のうちに、ちょうどその頃、米国サウスウェスタン・バプテスト神学校を卒業して牧会していたフランク・ホレチェク師の心に働きかけておられた。

 B 胎動
 その頃、即ち日本では敗戦後間もない1945年前後、米国のフランク・ホレチェク師は、海外宣教について、とくに日本での宣教の具体的な可能性について、熱く神に祈り求めていた。そして主はちょうどこの頃、時を同じくして日本の一寒村、大野村にも、同時に働きかけを成しておられたのである。即ち高橋清氏をはじめとする2、3名の大野在住滞米未経験者の心に、である。後らは当時、取り立てて何の産業もない一寒村大野村の将来に、乳牛、酪農の村を思い描いていた。そしてそれはまた、彼等がアメリカで体験してきたような、キリスト教を精神的支柱とする、乳牛、酪農の村だったのである。
 物心両面に渡る痛手と、取り分け、精神的支柱を失って空洞が、その心にポッカリと空いてしまった日本人の魂に、どうしてもキリスト教が、そしてまた、特に大野村には、酪農という産業が、これからは必要だと考えたのである。
 そんなアメリカのフランク・ホレチェク師の祈りと、日本の大野村在住滞米経験者数人の幻とを、主は摂理のうちに、不思議に一つに結び付けられた。即ち、日本での宣教の具体的可能性について、熱く祈り求めていたホレチエク師の元に、大野在住の数名の滞米経験者より、宣教師としての招請の声がかかる、という形でである。

 C 来村
 一方は敗戦後混乱の中、新しい村づくりの幻を抱きつつ、また一方は、長い間の熱い祈りの果ての、主からの明確な答として、とにかく、大野村に宣教師は来村した。米国保守バプテストミッション宣教師、フランク・ホレチェク師ご夫妻である。当時大野村の、ホレチェク師来村歓迎ぶりは、他の日本各地での宣教師来訪時のそれとは違い一風独特であった。村の人たちは、村はじまって以来の初めての宣教師来村を歓迎し、土地を提供し、丘の上にエキゾチックな緑色の屋根の家を建てた。今もその家はかつて焼山と呼ばれた小高い丘の上に建っている小さな寒村で、敗戦後の混乱期に、村人たちがアメリカから来村した宣教師を歓待する当時の麗しい光景を、私たちは今でも、容易に思い浮べることができるのである。それはきっとどんなにか敗戦後の絶望し切った多くの村人たちの魂に、新たなる希望のともしびとして映ったことだろうか。何れにしても、その様にして宣教師は来村した。東北の田舎、福島県の寒村に、福音は確かに届いたのである。そしてやがて、普通なら教会が立ち難いと思われる当地に、キリストの教会が、しかも自給自立の教会が建て上げられていくようになるのである。

 D 着任
 フランク・ホレチェク宣教師ご夫妻による、旧大野村を中心とした地方での開拓伝道開始。正式にはそれは1947年(昭和22年)9月28日のことである。けれども実際にはこの時は、来村して挨拶をし、これからの働きについて説明するにとどまり、ご夫妻はすぐその足で、約半年間日本語の勉強をするために、秋田の地へ向かわれれ秋田は十文字増田町。そこは、戦前からクレーグ宣教師によって宣教の働きが進められていたところで、当時そこにはクレーグ師によって救いに導かれた柿崎正氏がおられた。柿崎正氏がそこで、ホレチェク宣教師の日本語教師となられた。それは正に運命的決定的と呼ぶにふさわしい出会いであった。
 以後ホレチェク師は・日本での最初の宣教地・福島県双葉郡大野村に赴任され、すぐその跡を追うようにして、柿崎氏もまた、大野村に来村、着任されるようになるのである。
 ホレチェク師ご夫妻の大野村着任は、秋田での約半年間の日本語の学びを終えた後の、1948年(昭和23年)4月2日のこと。柿崎師着任は、その約半年後、11月のことである。

  II 開拓期
 A 伝道開始
 1948年4月2日に、ホレチェク師が大野村に着任されると、焼山の地に立てられた宣教師館を中心として宣教の御業は次々と押し進められていった。
 4月25日午前には大野村で、同日午後には熊町村で、それぞれ最初の集会がもたれ、特に初日から、熊町村では1OO名以上の人々が来会するという盛況ぶりであった。その他5月1日には、富岡の遠藤宅をはじめとして大野・熊町地区でも地区集会が始められ、更に9月には、双葉の長塚をはじめとして木戸地区でも地区集会がスタートし、以後、この地区集会を基盤とする当地に於ける宣教の展開と教会形成という形態は、約40年後の今日まで、続くことになるのである。
 大野村での最初の礼拝、それはホレチェク師ご夫妻が赴任されたちょうど1ヵ月後1948年の5月2日にもたれた。更に浪江地区でも、11月14日に最初の礼拝がもたれているけれども、福音の未伝地と言ってもいい当地での当時の働きの中核を成すもの、それは一にも二にも開拓であった。とにかく各地で路傍伝道が成され、天幕伝道集会が開かれ、更には野外映画伝道会が頻繁に行なわれた。伝道に次ぐ伝道である。主に路傍伝道ではホレチェク師の奏でる、当時珍しいアコーディオンと、また、ルツ夫人が演奏されるクラリネットがメガホンと共に大きく用いられた。更にまた、大々的に各地区で催された数日間に渡る天幕伝道集会では、しばしば当地においでいただいた諸先生方が数多く用いられた。天幕伝道集会は1951年頃まで、盛んに続けられたのである。

            富岡駅前の天幕伝道

 それは本当に素朴な、そしてまた、いつ思い起こしても心温る、東北の小さな農村のそこかしこで、当時眼にすることのできた、福音伝来の光景なのである。

 B 開拓伝道の実
 厳密な意味で、福音の到来ということについて言うならば、それは確かに今回が、全く初めてではなかった。すでにホーリネスの人々が、当地に伝道隊を組んで足を踏み入れ、福音宣教の御業を成してはいた。同じホーリネスの岡田静夫師(理・千葉県・岬キリスト教会牧師)は原町等に拠点を置きながら、当地でも、宣教の働きを押し進めておられた。けれども、本当に当地に腰を落ち着け、村人達と共に住み、そしてこの地に、キリストの教会を何とか建て上げようとする、いわゆる教会形成の御業と密接に緒びついた、本格的な宣教が展開されたのは、当地にあっては、この時が初めてと言って差し支えないのである。
 当初の開拓伝道における実、それは、目を見張るものがあった。前述のような、様々な形での伝道を通して、その翌年、1949年(昭和24年)には多くの人々が次々と地元の川でバプテスマを受け、その実を刈り取ることになった。その数一度に十数名。4月17日には19名、6月12日3名、10月9日11名、更に翌50年4月9日には23名、という次第である。この時期、救われて、49年1月17日にバプテスマを受けた者のひとりに、神田茂兄がいる。当時当地に住む花屋の一青年だった彼は、この時期、この地方一帯で精力的に押し進められた宣教の御業の中で福音に触れ、主に捕えられて救われて後、神学校へと進み、1957年に北上で結婚、現在、三重県尾鷲市の教会で牧師をしておられる。

 C 柿崎師を迎えて

 秋田県増田町で、ホレチェク宣教師の日本語教師をして為られた柿崎正師が、秋田県十文字教会の開拓の業を離れて、1948年11月21日に歌子姉と結婚式を挙げられて当地に赴任されると、当地における宣教の働きは、一層精力的に、また充実したものとして展開されるようになった。48年12月25日に、宣教師宅でもたれたクリスマス会には130名来会、また、翌26日に学校を借りてもたれた村のクリスマス会には、何と300名もの人々が来会している更に、1949年に入ると、夜の森でも地区集会が始められ、大掘では子供会がスタートし開拓伝道の御業はホレチェク師夫妻と柿崎師夫妻を得て、力強く展開されていくのである。特にこの時期、留意すべきは、49年4月に制定された信仰告白で、やがて当地に立て上げようとしているキリスト教会の基礎が、見えるところと見えないところの両面で、着々と築き上げられつつあったのである。

 3 会堂建設

 A 土地選定
 ある面、当時当地の人々を、勢いよくのみ尽くすようにして広まっていったこの宣教の働きの当然の結果として教会の形成、設立の動きが、早くも宣教開始の翌年、49年には出始めていた。
 その緊急の見える必要として、まず第一に、会堂建設があった。当時大野村は、人口2700人の寒村で、駅前といってもわずか500人の集落で、その際のまず第一の問題は、会堂をどこに建てるか、つまり、土地選定の問題であった。
 当時具体的に、2つの可能性があった。1つは、現在教会堂が建っている、大野駅前通りからは少々離れたところにある場所。ただし当時そこは、現在の様な家々は周りにはなく、わずか家2・3軒を見るたけの、見るからに淋しい野原一面の畑地であった。ただ広い上地だけを、そこに得て、教会堂建設を成し得る可能性だけがあったのである。もう一つは、当時の駅前通りの延長線上にある、現在の役場の通りのあたり。狭くても、そこは比較的人々もいて、より村の中心地に近い、魅力ある場所、即ち、人間的にはより宣教の可能性があると思われる場所であった。けれども主は、当時は村の中心からは外れていて、さらには将来も、より教会の発展の可能性があるとは、とても人間的には思われなかった前者の場所へと、導かれた。そして、それは確かに、今にして思えば深い主のご摂理だったのである。
 当時もう一つの候補地として挙がった後者の場所は、現在は道路になっている。もし当時、あの場所に教会堂を、建ててしまっていたならば、現在、引っ越しの止む無きに至っていたに違いない。そして主は、今にして思えば、当地のような交通の不便な地域に立てられて、しかも広い範囲の地域から人々が集まって来る教会にとって、必要不可欠な要素でもある、駐車場つきの、現在の広い土地を、予め、あの時私たちに選定させてくださったのである。
 それは、現在実測値で400坪を越える、当時教会員の池田よしの姉よりお借りして、後、教会が2回に渡って正式購入することになる土地であった。何れにしても、そのようにして導かれた主の土地に、キリストの教会堂が、建て上げられるようになるのである。
 記念すべき定礎式。それは、1949年(昭和24年)1O月9日に行なわれた。

               教会建設の様子
  B 会堂建設
 一面の原野の中に、教会堂が建つ。日本の一寒村、東北の田舎に、キリストの教会堂が建つ。それは、来村して実際には2年目の米国宣教師ホレチェク師にとっても、また秋田より当地に赴任してこられた、柿崎師にとっても、そしてまた、そのニュースを逸早く伝え聞いた、アメリカのホレチェク宣教師を送り出して支えている教会にとっても、否、村の歴史始まって以来、始めて当村にキリスト教会が建つ光景を見る当時の村の人々にとっても、当然のことながら、大いなる感動であった。しかしとにもかくにも、進入路も満足にないような畑地の中に、教会堂は建った。村の教会の設立である。1949年12月11日に、教会への進入路を皆の手で作り遂に完成。その月には、献堂式前のクリスマス会を新会堂で開催。実に、約500名もの村の人々が集まった。またその前月、11月9日には、教会での始めての結婚式(中村栄助兄と堀川トシ子姉)が挙げられ献堂式前から、新会堂はその様にして次々と用いられていったのである。

 C 献堂式
 1950年(昭和25年)1月29日。「大野聖書バブテスト教会」献堂式の日である。それは、実にホレチェク宣教師が実質来村して宣教を開始されて後、2年目にして当地で迎えた記念すべき感激の日であった。
 この時の様子を献堂式の中で祝辞として読まれた高橋清氏の今も残る文章が、よく伝えている。これを見ると、当時ホレチェク宣教師が、はるばる米国より大野村に招かれた事情や、村人たちの歓迎ぶり、そして、ここに迎えたキリスト教会献堂式を心から喜ぶ様子が、よく伝わってくるのである。高橋氏とは、敗戦後混沌としていた大野村の将来に酪農とキリスト教の村づくりの幻とを描いて、はるばるアメリカよりホレチェク師を宣教師として大野村に招いた、大野在住の、かつてのあの滞米経験者のひとりである。彼は、山に入った所にある自分の家を、くるみの木を植えたことから、ウォルナットバレー教会と呼び、当時解放して月1回、子供会や大人の集会を開いていた。そこは、約40軒余りの集落で、今であれば、国道288号線で玉の湯鉱泉を越えて少し行ったところから入る、当時もダムのあった場所である。前同じ献堂式の時に読まれた祝辞で、高橋氏の後に引用するものは、高橋氏の友人で木戸駅前に住む、猪狩昇氏のものである「木戸ホレチェク・クラブ」と述べてあることから、当時の広い範囲、地域に渡って、ホレチェク宣教師来村の歓迎ぶり、ひいてはキリスト教会設立を喜ぶ様子が、伺い知れるのである。

                      献堂式
 
 祝詞
惟うに我国に基督教伝来の歴史は極めて古し、而してその伝道の跡を観るに唯悲惨なる痕跡を止むるに過ぎざるものあるは主として仏教の渡来が基督教の渡来に先だって余りにも古きが為に仏徒と時の政府とが相結んで基督教を排斥したるに原因するものである。之を島原の乱に観る時は、更に明瞭なるものあり 勿論仏教のき我国民の精神界に寄与したることは大なるものあるべきも之に反して我国をして世界の情勢に後れ、物質文化に浴すること能はず恰も長き冬眠状態に独善を壇にせしめたり、徳川政府末期に至って提督コマダーぺリーの来って武門戸を叩くに至って始めて国民は愕然として醒むるに至りたるも、時既に遅く日は中天に昇りいたり、にわかに国民は旧套を脱して欧米文化の吸収に之努めたるも、惜哉唯り物質文化の吸収に忙しく精神文化の吸収に余力なきに至れり。明治憲法の制定は宗教の自由を認むるに至りたるも、猶仏教に依る長き因習は基督教に依る精神的教養の恵みに浴することを欲せず反て之れに反対的傾向を示すに至りたり。かくのごとく国民は自己の有する精神的教養を恰も蔽廠を脱ぎ捨つるが如く、唯欧米に於ける物質文化の吸収に努めたり、明治初年より今日に至るまで殆ど八十年間に亘り我国の跛行的教育方針は常に無方針否混乱状態を持続し来たり、之即現下の悲しむべき状態に陥りたる原因である。不肖聊かここに観るところあり現下の混乱したる思想界に即応せんと欲し、終戦後全国に先んじてホレチェク先生夫妻を大野村に招待し以て此処を中心とする此地方一帯に基督教に依る精神教養の恵みに浴せしめんと企図したのである。此事の新聞紙上に記載せらるるや、全国各地よ基督教に帰依し以て大野に宗教生活を送らんと希望し書を寄せ来る者の相次ぐに至りたるが如き亦以て大野村の誇りであると信ず。今やホレチェク先生夫妻の居を此処に移され、爾来先生夫妻の地方民に対するその親しみとその愛を以てする布教の努力とは我等地方民の斎しく驚異の眼を以てする迎いつつあると同時に一方米国人の吾等の現下の苦しみの一部を頒たんとする多大なる救済物資は先生夫妻の手に依って頒たれ我等は是等を涙を以て拝受したのである。斯る先生夫妻の努力は日と共にその教化に浴し帰依し以て信者となるもの多きを加ふるに至りたるは一に神の御導きに拠ることは言うまでもなきことであるが、亦又以て先生夫妻の努力に荷ふところ大なりと言うべし。今日此処に教会堂成り、献堂式を行ふ基督教に拠る精神文化の光は将に燦然として大野村の一廓より放たれん。不肖此盛儀に臨まんと欲するも病を得て起つ能はず推して祝辟を書して微意を表す。
 昭和25年1月29日
       ウォルナットバレー教会
                高橋清

 祝辞
本日大野教会の献堂式に当たりまして心からなる感謝を神に捧げ教会の皆様方にお喜び申し上げたいと存じます。此地に福音の種がまかれてより皆様方の熱心な祈りと献身的な奉仕とによりまして、キリストの身体なる教会がここに建設せられた事であります。大野教会がこの地におきまして、主イエスの福音を愈々広くおしひろめられ神の御栄を顕にされまする様、ひとえに祈らざるを得ません。就きましてはホレチェク先生御夫妻の上に又会員御一同に神の祝福豊かにありまする様、深く御祈り致します。簡単ではありますが木戸クラブ員を代表し祝辞に替えたいと存じます。
 昭和25年1月29日
   木戸ホレチェク・クラブ
          代表 猪狩昇

4 宣教の働きの進展
 A ジープ献金

 大野教会献堂の背後には、多くのアメリカの教会の兄弟姉妹の熱い祈りと、そしてまた、様々な形での具体的援助があったことは云うまでもない。そしてその頃の、そんな心暖まるエピソードの一つに、米国の教会からのホレチェク宣教師に対する、ジープ献品の逸話があるのである。
 当時、特にホレチェク師が赴任して1年半は、宣教のための足と云えば、もっぱら自転車か汽車であった。もっとも、その頃、即ち昭和23年当時は、一般にも、特に大野村等では自動車は走っておらず、つまり、それは決して珍しいことではなく、むしろ当然の光景であった。
 けれども、今から約40年も昔の大野村地方の汽車は、現在のそれに輪をかけた位の不便さで、特に小高地区から木戸地区に至るまで、広い地域に渡ってその宣教活動を繰り広げようとするホレチェク師にとっては、どうしても自動車の必要は不可欠、そしてまた、急務と思われた。
 さて米国では、その当時そんな日本の大野村で労するホレチェク師の働きの実状と祈りの必要を伝え聞いたオレゴン州の保守バプテスト教会の青年たちが、そのために米国にあって真剣に祈り、そして遂に、500ドルのジープ献金を自分達の手で集めて、ホレチェク宣教師宛てに送ってきたのである。1949年のことである。
 その様な暖かい、多くの、特に米国の教会の兄弟姉妹の熱い祈りと尊い献げものに支えられて、大野村を中心とした地方での、当時の福音宣教の働きは、進展していったのである。
 この時献げられたジーブによって、当時当地に於げる宣教の働きが、どれ程効果的に、かつ力強く進められるようになったか、否それだけではない、当時まだ自動車そのものが珍しいような時代に、田舎の地にあって、米国宣教師がジープに乗って各地を駆け巡って伝道して歩く様子が、如何に当時村人たちの目を引き、関心を集めたか、その影響は図り知れない。

          ホレチェク師の伝道の足ジープ

 B 各地での特別伝道集会

 新会堂が与えられ伝道の拠点が定まり、活動の足としてのジープもまた与えられると、宣教の働きは実に精力的に展開されていくようになる。1950年には、2月に夜の森、3月に小高、9月に熊町、更に10月には、大野で、11月には浪江でと、更にまた翌年には2月に双葉でと、各地区で、各々4ヵ月間程に渡る集中特別伝道集会が開かれた。そこでは、映画や、外部から来られた講師等も、様々に用いられた。

 フランク・ホレチェク
 開拓開始期の思い出

 ウィートン大学校長先生エドマン博士はその朝のチャペルで信じられない発表をしました。「アメリカは日本に宣戦を布告する」と。「私も戦場へ行くのか」と考えた。しかし、今は3年生。当日は奇しくも丁度自分の誕生日(1941年12月7日)でした。やがて、新兵委員会から「勉強を続けて、思う通りに従軍牧師になるように」と返事がきました。この時から日本のラジオヘ(原町無線塔)から戦いリポートを聴取すると同時に神学校も続けました。(1943~46年)
 途中(45年)で平和があつて、「戦争の影響で多くの国々が宣教師のために開ける」と気がつきました。妻ルツと海外宣教について祈っていたところでした。
 丁度その頃、仙台で働いていた友達から大野の高橋清さんの住所を知り手紙を出したところ「宣教師として来なさい」と招きを受けました。
 私の団体は戦争前に日本で働かなかったので、すぐ日本に入られません。しかし、高橋さんの招きによって可能性があったので、団体議長は「高橋さんの招きを進みなさい」と私に願いました。
 私たちは大野へ行くことを殆ど決めた時、急にクレーグ先生(戦争前に秋田で働いていた宣教師)が現われて、彼女により私達ミッションとして日本に入りました。
 1947年8月22日横浜に着き、その船のランプの下で高橋さんが待っていました。大野地方の人たちが特っていて、私たちのために大きな歓迎会を準備しました。しかし、クレーグ先生の関係で、すぐ大野へ行けませんでした。あの時の断わる言葉を言うのは、本当にむずかしかったのです。秋田の十文字町、増田町で半年日本語を学んでから、大野へ行きました。秋田にいる間に私の日本語の教師は柿崎正先生でした。彼は戦争前クレーグ先生の導きによって救われました。私たちの下手な日本語か、殉教者であった十文字町の高橋さんの祈りかどうか神の召しがあって、大野に来て手伝いました。彼と奥さん、2人の子供(忍と傳)と牧会して30年間懸命に主のために奉仕しました。
 開拓伝道のあの時代のユニークな点は次のことです。1948年のことでした
1・高橋さんは私たちの仲人をして、自分の間違えた文化や習慣などを人々に説明しました。良く日本語を間違えました。ある時、玄関で2人の青年に真面目に、「私も皆さんと同じく人参です」と言ったのです。(人間と言うつもり)
2一村の人たちは妻と私のために土地を提供し、家を健ててくれました。おどろきました。(ただ2年前には国の敵でしたが)感謝してます。
3・一般の宣教師は、無理に町々に入ります。しかし、私の場合は高橋さんを介して町々から招きを受けて集会を開きました。
4・その当時、青年達は殆ど地元におりました。どんな集会も若い人でいっぱいでした。でも、10年経ると、進学や就職、結婚する者が多くなってきました。
5・大抵の宣教師は人口の多い市や町へ行きます。しかし、神の導きによって大野村にきました。人口は約3000人、駅前は僅か500人位だと記憶してます。寺もない所でした。
6・あの当時、野外映画伝道を多くやりました。
 ムーディー科学映画など。トーキーは減って、マイクで日本語を使いました。川を使ってバプテスマを施し、自転車、電車、ジープで伝道しました。日本語の不足、文化の理解不足、経験不足の私たちでしたが良い結果があったら、すべての感謝は私たちのすばらしい主にあげます。私たちはただ聖書の種を蒔き、水をやり、雑草をとったようなものです。命を下さって、成長させて下さるのは、ただ神です。神の名を賛美致します。 

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