マタイ福音書の話

月、水、金の週に三日、透析クリニックに送迎車に乗ってゆく。
運転手と雑談する時間が昼に行くのと帰りの夕方に家まで20分くらいある。
だいたい一話完結で小話のような聖書の聖句の話を、どの運転手にもする。みな自分から求める話題ではないから、こちらから仕掛ける。
新約聖書の「右の頬を叩かれたら左の頬も」という有名な話がいいかもしれないと思って、雑話としてするのだ。
小西さんあたりからは「そういうのあるんですか。聞いたことさえない」と言われる。まあ昔のユダヤの格言だと思って聞いてください。
旧約聖書にはモーセの律法という箇所に、古いメソポタミアの「目には目を。歯には歯を」という過失の賠償などについての現存する人類最古のハムラビ法典という法学の体系中に有名な格言があって、人間は何か過失でも悪意でもやられたらやりかえしたいのが当然の感情だが、しばしば頬を叩かれたぐらいでも怒ると人間は相手を殺すほど凶暴な面もあることを知っていたので、古人の知恵は、歯を一本折られたら、相手の歯一本でやめとけ、という意味です。
これは人類にとって非常に進歩的、かつ平和な法律で、革命的な制度ではあっても、実は自由人と奴隷の間では、実際には複雑な量刑の配分や競馬のオッズのような社会状況にあわせた組み合わせもありました。
これを新約時代のイエスキリストという人は、歯には歯をという有名な話はみなさんの知ってのとおりだが、その辺でやめとかないと双方とも滅びるまでやりあうものだよ。やめとけ、やめとけ、というのが神の知恵というものだと彼は教えたんですね。
しかし私はこういう。右の頬を叩かれたら復讐したいでしょうが、叩き返さないで、むしろ左の頬を差し出して叩いてもらいなさい、と言うのです。
そんな圧倒的不利な条件で、この世を生きることが神の知恵だなんて、馬鹿みたいなことをいうおじさんもいたもんだ、という一般日本人が多いのです。「だからキリスト教の教えというのは奴隷の道徳」なんだと軽蔑してきたわけです。

ですが送迎バスの中ですので、教会礼拝のような立派な説教はしません。ぼくは、2000年前のイスラエルは、今の沖縄みたいな占領された田舎都市で、当時のローマ軍事歩兵はその辺に歩いていたユダヤ人をつかまえて荷物を持たせて1キロ(ミリオンを1キロに翻案)歩かせるのはローマ帝国兵士の権限であると占領地法律で決まっていたので、みな従わざる得なかった。今の沖縄でアメリカ人に同じことされたら運転手さんはどう感じますか?
そこでイエスさまはこう言ったんです。「ローマ兵に命令されたら、しのごの言わずに1キロ荷物を持って歩いたら、さらに「2キロ歩きましょうか」と自分から申し出ろ。それが占領された国の国民の意気というものだ、とダンデイズムを民衆に教えたんです。こうなると、ローマ兵は、ユダヤ人というのを、クリスチャンという人種を気味悪く思いますから、そのくらい気高く生きろや。泣き言いってねえで、沖縄だって同じだ。イエスさまが現代日本に出現したら、きっと沖縄でこういうと思います。これはもちろんわたしの妄想の話です。これが、ぼくの聖書談義であります。ご清聴ありがとうございました。
これがぼくのマタイ5:36の正解です。運転手「まだベニマルまで来たところですぜ。まだヤクルトです」といい、もうすこし喋れそう。
この章は新約で最も有名な山上の垂訓がピークなので、イエスの八福という有名すぎる部分を含むので、イエスは山の上でヒトラーみたいな大演説したんじゃなくて、聴衆が5000人も一人の演説聞くためには、聖書学者がいうとおり、山の下から山の上にみんなが集まって、イエスの名演説を上から聞いたんだとぼくは妄想してますが、気仙沼の山浦医師の気仙語聖書でスイクンを解き明かしにかかります。あとは、またあさってね。

注。1ミリオンというのはメートル法で現在では1500m。安息日に、あるっていいのは、このくらいの距離だそうです。ユダヤの人って、何でもマニュアルを作ってしまった民族ですから、まるでうちの奥さんみたい。