戦争と教会
 磯山ヨハネ教会の建設

 磯山ヨハネ教会の礼拝堂工事落成
 関係者を招いて挙式
(民友昭和11年12月29日)
相馬郡福田村磯浜東太平洋を望み西に鹿狼を負ふ景勝の地に今春来工を進めた磯山聖ヨハネ教会礼拝堂は限りない神の祝福と熱烈な信徒地元関係者後援の下にこの程見事竣工を告げ廿七日午前九時から日本聖公会東北地方部監督神学博士チエヌ・エス・ビンステッド師が司会者となり盛大な聖・献堂式を挙行した定刻一同着席の後十字架捧持者を先頭に聖歌隊、教会、委員、伝道師、聖・監督の順序で静々と入堂厳かな聖堂式を挙げられ続いて神の恩寵に感謝する聖餐式があり祝貿会に移って仙台聖公会宮城好男氏の経過報告・高・村長、福田村会議員総代佐藤幸次郎、福田産業組合長遠藤多平、福田小学校長岡本留之助、仙台聖公会代表石城豊一氏・その他の祝辞があり何れもこの日の喜びと共に二十余年間神の使徒としてこの僻村に止まり人類愛国際親善の楔となって地方文化の第一線にあるアンナ・エル・ランソン女史の高風高徳を讃へ信徒総代三宅□氏の謝辞に次ぎランソン女史は六十三歳の老齢とは見えぬ童顔を感激しながら低いが力強い口調で感謝の言葉を述べ正午一同と共に昼食、午後一時より更に聖洗式及び信徒按手式が行はれて意義深い聖典を無事に終了した新礼拝堂は 村荒利雄氏の請負に係り総坪数二百三十三坪、建坪五十坪の木造瓦葺・家、用材は同女史の心やりから全部地方のものを用ひ総工費約五千円、大部分米国信者の献金に成り信仰の伝道にふさはしく荘厳の内に神気あたりを払ふばかりの威容である

磯山聖ヨハネ教会

 戦争中のキリスト教

 昭和12年12月は、戦時中の福島県出身の兵役にある男性にとって最も過酷で困難な試練の時代であった。
 昭和6年9月に満州事変として始められた対中国侵略戦争は、昭和初期からの大恐慌で不況に見舞われ、ヨーロッパ列強の帝国主義に倣った植民地獲得の経済打開の動きだったが、昭和12年7月7日には全面戦争に拡大させてしまった。当時は支那事変と称された日中戦争である。
 この年の12月には、日本軍は一気に南京まで侵攻し、これを占領した。
 福島市で開催された731部隊の展示会で、南京虐殺にかかわったある少尉の手帳の中に「俺はクリスチャンなのに、なぜこんな目に遭うのだろうか」という一節を見かけてショックだった。
 武器を持たぬ中国人捕虜1万4千人を殺したが、上部からの命令を現場で指揮せざるを得ない状況に遭遇したある少尉の呻吟のメモであった。
 昭和6年初めて召集され、昭和12年に再度召集されて中国で転戦し、武勲をあげて出世したという下士官で旧大田村の出身の老農夫を取材したことがある。
 たった一度、初めて会った人だったが、聞き書きしているうちに過去を思い出して大粒の涙をぼろぼろと流して号泣し出したので驚いたことがある。
 この人物は南京の揚子江のほとりで、信号弾を合図に両側から機関銃で射殺してゆき、生き残った中国人捕虜を銃剣で刺して殺した場面について証言を残している。
 50年後になおその罪の意識にさいなまれている苦しみに対面して、息を呑む思いであった。
 実際に無抵抗の捕虜を殺した兵も、それを指揮したクリスチャンの将校も、深い罪の渕を抱いて生きてきたのだろうと思うとただ現代にうまれ合わせたというだけで暢気に構えてはおれない。
 ただ文化的な香りのするキリスト教講演会を伝えていた新聞記事はやがてすぐに、困難な時代の教会の姿を伝えることになる。その例を掲げてみる。

 昭和12年4月8日。福島民報。
中村キリスト教会懇談会
中村日本キリスト教会では十一日午後七時から教会員の第二回懇談会を催すが同懇談会は先きに開かれた懇談会における米国からのミッションからの経済的な支援を排除し種々な与件から脱せんとする計画に関し同教会としての具体的方策を論議するものである
 
 昭和12年7月30日。朝日新聞福島版。
 日曜学校献金
〔原町日曜学校生徒一同は一円五十銭を国防献金〕

 外国人とみればスパイ視され、日本を愛する者も、神の愛を述べ伝えるためにやってきた者にとっても厳しい冬の季節となった。宣教師の国外退去の例として、次のような例もある。
 
 昭和13年7月31日民報。
 三十年の憶い出残し
  ランソン女史帰る
 相馬の浜に住んだ神の使徒
日露戦役の勃発した明治三十七年三十二歳の時渡日して以来三十三年間ひたすらに神の教へを農村漁村の信者に説き続け六年前より相馬郡福田村磯村の海浜に居を卜して朝夕の勤行と共に村民から慈母の如く親しまれていたキリスト教聖公会伝道師米人アンナ・エル・ランソンさん(六五)が思ひ出深い日本を後に九月十五日神戸出帆帰国する事となった、三十三年の日本生活にすっかり血色まで日本人らしくなった、ランソンさんは往訪の記者に上手な日本語で語る
 日本はもう自分の故郷と同じです、生まれ故郷であるワシントンの西六○哩ハーバースフェリーの町に居る兄や妹が是非帰れと云ふので今度帰国することになりましたが本当に日本を去るのは寂しい、日本は善いとか悪いとかとかを超越して離れがたい愛着を感じています
 同女は同村内の洗礼を受た信者約八十名に何くれとなく親身も及ばぬ世話をしていたもので「今度支那事変の銃後と日本の護りの状況はどんな風に見られますか」との問に両手を振って語らなかった
 
 
ランソン女史

 下記するとおり、古山金作氏筆の相馬市史によるとランソン女史は昭和15年春に帰国したという。

 磯山聖ヨハネ教会と新地伝道

 新地は、相馬市と隣接し、福島県の北限、宮城県と界を接し、藩政時代は仙台伊達藩(六十二万石)と相馬藩(六万石)との分界線にあつたから、久しく紛争の絶えなかったところである。ここにキリスト教が最初に伝えられたのは大正九年(一九〇二年)頃、仙台からであった。ここには仙台市の小塚病院分院としての磯浜療養所(磯山サナトリウム)が建てられていた。当時小塚病院に隣りして聖公会経営の青葉女学院(保母養成校)があり、たまたま米人婦人宣教師ミス・ランソン(アンナ・L・ランソン)が院長として在任されたが、在仙中縷々療養と避暑もかねて来所された。滞在中求められるままに入所者に、また村人達に福音を伝えられたのがはじめであつた。その後、年毎に磯浜滞在中は定期的に集会がなされ、次第に伝えきいて青年男女をはじめ村人達が女史を中心に集まり、また、夏期中は在校中の学生達を伴って農繁期托児所を開放し、熱心に村人に奉仕した。
 ラソンソ女史は北米ウイストヴァージニア州の出で、彼地の聖公会神学院を出られて来日、教育と伝道に献身奉仕された。一時東京の立教女学院長をされたが、再ぴ仙台青葉女学院長として再来任されてからは、新地に積極的に伝道され、村民からも慕われ三宅康氏一家をはじめ近親者を中心に全村の関心を集めるようになり、磯山の小高い丘(現在教会堂のあるところ)に永住を期して星見荘を建てそこに移り住まれた。この地の伝道開始以来二十余年にして昭和七年八名の受洗者があり、これらの人々を中心に教会堂建設の議が起り、次第に機運がたかまり、教会敷地と教会維持のために水田一反歩の献納があり、更に聖公会本部よりの援助、信徒及び地域住民の献金奉仕によって昭和十一年十二月二十七日建堂式を挙げるに到った。新地の市街地から遠く隔りたこの景勝の地に堂々たる丘の教会堂が完成したのである。早朝鐘の音に、礼拝聖餐式といそぐ人々、夜はおそく伝道集会に教会の行ぎ帰りに提灯を連ねた村人の行列は、まさに風物詩を展開した。いま手元にある一九六〇年版キリスト教年鑑を開いて見ると現在会員数八七名とある。当時の教勢が思いやられる。その反面村の一部にはキリスト教に対する根強い反対と迫害が行われた事実を教会の古老信徒達は回想するのである。
 ラソソン女史は在日二十年、日米の風雲急を告ぐる昭和十五年の春、六十余歳で退職帰米されたが、その後任として宅間六郎司祭が晩年を終生この教会に奉仕された。
(磯山聖ヨハネ教会と新地伝道 四五九)

 かくて磯浜療養所から始められた新地伝道に忘れ得ないことはここに働かれた高橋功博士の業蹟である。博士は療養所に勤務(眼科専門)一時この地に開業されたが地元住民の信望は高く、医は仁術に徹した博士は夫人と共にその人道的理想を南亜ランバレネのシュヴアイツアー博士の許にその同労協力者として献身されたことである。そのライフワークは著書「シュヴァイツアーと共に」「さらぱランバレネ」に詳しい。高橋博士と共に思出されるのは、磯山「観潮台」(潮見の丘)に今も建っている志賀潔博士の記念碑である。博士は嘗て若き日、渡米し、彼地にあって医学の研究と実験に貢献され、(専門は細菌学)彼地の大学から医事功労者として名誉博士の称号をおくられた方である。現在博士の家族は磯山の旧宅に住んで居られる。ここには現在宮城教育大学の学寮があり、そのお世話をして居られる。(相馬市史・古山金作)

 国外追放になった宣教師は多いが、日本に残った人々もある。後に言及する戦後の原町カトリック教会のヤシント・エベール神父も東北伝道に携わっていたときにアメリカとの戦争がはじまり、連合国の母国のカナダに帰国することを勧告されたが、伝道の使命に殉ずる覚悟でそのまま日本に残る道を選び、土浦の外国人収容所で終戦まで拘束されていた。

 戦時下の苦難の時代

 成瀬稿75年略史より。
 「第五章 苦難時代(自昭和十年 至昭和二十年)

 1 昭和十、十一年頃(一九三五、六年)の教会小野寺牧師着任第二年目を迎えて教会負の転出が多く殊に青年信徒の中心的メンバーが都会に転出して集会の出席者も低下の一途を辿つたようである。長く会計長老の任に当つた成瀬銀一郎夫妻は大阪に去り、高橋千代、寺島春義等は東京へ、沢田、鎌田、塚田等は仙台へ転じ教会は活動分子を失つたような状況であった。尚鎌田清二は伝道を志して東北学院神学部に進学したが在学中に病死した。
 このような時代にも教会は絶えず生き続け十一年三月には婦人伝道師鈴木淑子が来任して、女子青年会白百合会を発足し八月には渋佐海岸で四日間の海浜学校を開設して二四名が参加し、特別伝道としては三月にシュレーヤ宣教師及千葉太郎牧師の集会があって四五名の出席を見、七月には道旗恭蔵の特別伝道を催して五六名の出席者があった。
 昭和十二年(一九三七)鈴木淑子婦人伝道師は新庄教会に移り、代つて金子秋子が着任した。
 (註)当時婦人伝道師が活躍しているが婦人伝道師と言うのは教会の婦人達の手によつて婦人伝道局がつくられてその事業として婦人伝道者を養成して主として牧師を助ける働きをした。東北教区内では宮城女学校内に聖書専攻科を置いて婦人伝道者の養成機関とし各地の教会に働く人を送つている。この頃の教勢は一進一退の状況で集会等は余り振わなかつた様であるが五月には久布白落実が来援して日本基督婦人矯風会の講演会があつて多くの婦人の聴衆をあつめ、また萩原信行牧師(東二番丁教会)の特別伝道会があって三八名の出席があった。
 昭和十三年(一九三八年)から同十八年(一九四三年)までの教会記録及資科は皆無なので教会の諸活動の記述は不充分であるが教会内部よりも寧ろ日本キリスト教会東北中会の事情や次いで時局下に於けるキリスト教会全般に亘る大きな変動期の中で教会の宣教活動は動きのとれない状況に置かれるようになったことが特記すべき事と思う。
 創立当時の中心的役割を演じた信徒や協力者たちが次々に逝去したのもこの頃であつた。
2 教会の自給独立
 アメリカとの国交問題が険悪になるに従つて教会もアメリカの教会に依存する訳には行かなくなり、日本の教会は日本独自の教会として自立することの急務を訴える人々が多くなつて来た。原町教会の属する東北中会の中にもアメリカ教会の援助の許にあることを排し経財的にも自立する必要を主張する牧師と、従来の協力関係を持続することを主張する牧師とが対立し、東北中会はアメリカ教会の援助をたち切ることを採択した。これに反対する人々は新たに奥羽中会を設立することになり、各牧師各教会はその何れがを決定することになつた。
 原町教会も教会総会を開いてそのことを議することになつた。不幸にして牧師の意見と教会の意見が別れ、小野寺牧師は奥羽中会につくことを主張し、教会は東北中会に属することを希望した結果、小野寺牧師は原町教会を去り小高教会と共に奥羽中会に属することと成つた。然し原町教会はその結果従来の、ミッション補助は終止符をうち財政的自給自立を敢行することに成つたので、阿部喜一、遠藤剛男等が中心となって教会財政自立の決意をもって教会運営にあたることに成つた。
 そして独立最初の教師として古山金作牧師が着任した。
 小野寺牧師は小高に去ったが間もなく牧界を去り実業界に投じたが最後は失意であつた。」

 古山金作牧師の就任と
 原町日基教会創立40周年

 福島民報の「原町短信」(昭和15年6月9日)に次のような記事が記されている。

 相馬郡原町幸町の原町日本キリスト教会(役場東隣)は明治三十三年六月の創立で九日を以て満四十周年に相当すると共に今回古山金作教師の新任を迎ふることとなったので同教会では当日午後二時から感謝記念礼拝伝道教会建設式並びに主任者就職を挙行するが司式者は仙台市荒町教会角田桂嶽師である。

 記事文中の伝道教会建設式というのは、日本キリスト教会とメソジスト教会、デサイプルとの三教会合同協力による伝道活動のための新事業の発足を意味する。
古山金作
 古山金作は、1904年(明治37年)飯坂町湯野生まれ。1925年(大正15年)5月30日受洗。1935年3月同志社神学部修了。1935年(昭和10年)~1936年5月、福島教会第六代副牧師。
 1943年(昭和18年)~1943年12月、福島教会第九代副牧師。1944年(昭和19年)~1945年4月、福島教会第七代牧師。
 1978年(昭和53年)3月6日死去。
(福島教会 教会形成時代)

 成瀬稿75年略史にはこの時の様子を記録しているので下記に掲げる。

 再び成瀬稿75年略史より。
「3 昭和十四年(一九三九)以降
 前述の通り米国教会の援助を絶つて新しく自給独力の教会の第一歩を踏み出した原町教会は従来年々八百円から一千円の、ミッション補助金が絶たれ教会員の責任も重くなり牧姉の生活も極度に苦しい立場に立つことに成つたが、信仰的には寧ろ意気あがり、古山牧師を先頭に勇敢に時局に立ち向うことになり、先ず原町の三派教会の合同の協議会を開き下町教会(デサィブル派)から青田、武藤、メソジスト派(石川組)から高篠あい、佐藤馨、原町教会から阿部喜一、遠藤剛男、末永好、物江きよ等が原町教会に会して佐藤馨司会の許に協議を重ねた。そして合同のための協議会を引続き開くと共に、合同クリスマス、合同修養会等を開催することとした。
 昭和十五年(一九四〇年)には村岸清彦牧師を迎えて各教会合同をもつて浜通り信徒修養会を原町教会で開催し、また村岸牧師の特別伝道集会を開き二十四名の出席があり、同年六月には教会創立四十周年記念礼拝を催して角田桂嶽牧師の説教があり、同時に原町伝道教会が成立したので伝道教会設立式を行ない、中会から小林亀太郎牧師、角田牧師が派遣された。その日の出席者二十六名で、教会員の総数は十六名であった。同年六月十一日杉山元治郎代議士の国民精神作興講演会を公会堂で開催し二六〇名の聴衆があつた。尚杉山代議士旧知の人々が会して懐旧懇談会を開き遠藤一家経営の聖療園を慰問した。
 この頃は、戦況が日増しに苛烈を加え、宣教は極度に困難になって来て警官が信徒の家庭を訪問して威嚇を示し、礼拝には私服警官が来て牧師の説教をメモすると言う検閲の厳しさを加え六月三十日には原町飛行場の一部が完成して祝賀会が挙行されるという暗黒日本の開幕の時であった。国民総動員の政策の中で古山牧師も徴用を受けて、高倉鉱山に転属され、教会の宣教活動は硬着(膠着)状態となった。
 そして昭和十六年(一九四一年)六月には日本基督教団の成立を見るのであるが、同年四月古山牧師は同志社大学神学部の研究科に入学のため原町を去り同年八月京都西京教会牧師に就任した。」
 注。成瀬稿「古山牧師も徴用を受けて、高倉鉱山に転属され」とあるのは、原町牧師時代ではなく、福島教会時代のこと。

 相馬市史から、次に戦時中の教会の項目を引用する。古山金作氏の稿だが、古山氏は最戦時中、原町の教会牧師であり、困難な時代に憲兵や特高刑事らと交渉に当たった。(相馬のキリスト教(古山金作〕四六四頁)

 時局は刻々緊迫の度を増し、昭和十五年「皇紀二千六百年」を盛大に祝賀する頃、戦時色は一層色濃くなって来た。とりわけ原町は海岸線防備の拠点となり、雲雀ケ原(野馬追原)は急遽軍用飛行場となり、連日急降下爆撃の訓練飛行が繰返され用地への立入りは勿論、遠方からの、展望撮影も禁止された。ここに高射砲陣地の構築、高松に騎兵隊営舎の急造が予定され、これに伴って原町憲兵分隊が設けられ、原町警察署には特高警察が強化された。キリスト教は敵国の宗教と看倣され、教会は四、六時中憲兵特高の看視の下におかれ、日曜礼拝には必ず特高の刑事が後方座席で説教をメモしていた。古山牧師は昭和十四年仙台荒町教会から赴任して間もなくこの緊迫した中で復興開拓伝道に苦心した。当時の週報を見ると、二月十一日紀元節に特別伝道礼拝を行い国民儀礼にはじまり「肇国の精神と神の国」の説教題で説教している。一口、口をすべらせぱ逮捕拘留も覚悟せねばならぬ。六月には翼賛議員杉山元治郎氏を招き原町小学校講堂で時局大講演会を催した。杉山氏は「国民精神作興とキリスト教」について講演し聴衆三〇〇余名という盛会であつたが、この準備と跡始末には牧師は連日特高と接衝しなけれぱならなかつた。(相馬市史)
 
 原町に憲兵分隊が設置されたのは昭和15年のこと。雲雀ヶ原に陸軍飛行学校が設立されたため、これの警備を兼ねての同時開設であった。相馬市史には雲雀ヶ原が「急遽軍用飛行場に」とあるが、最初から軍用の飛行場として設備された。昭和11年に一度開場し、15年には熊谷陸軍飛行学校の分校が設置されたもの。

 村田四郎東京神学校長の舌禍事件

 昭和14年の日本基督教会40周年と同じ記事には、続けて杉山元次郎代議士の来町と講演の予告を告げているが、その演題は戦時色濃いものである。

 産業報国連盟理事、現代議士杉山元治郎氏は国民精励強化講演会講師として十日来町の上十一日午後七時半から原町公会堂で「皇国神社とキリスト教」と題し、また十二日午前中を相馬農蚕学校で「時局と宗教」なる演題で学生講演会を開く筈である

 皇国史観で国民を教育し、天皇を神として崇めることを強要する社会体制の下で、異国(敵国)の宗教とみなされたキリスト教会は日増しに国家の支配を受け、その干渉の中で信仰を護るために献金や勤労奉仕を行った。

 昭和14年2月20日、民報。
浜通り通信「北相」〔中村町日本キリスト教会では旧鑞催したクリスマスの剰余金六円を十七日中村署に稲刈牧師が持参し●愴兵費に献金方を寄託した〕

 ほかの宗教もまた、国家の意向に沿うような行動が期待され、組織を護るために従った。

 昭和15年5月17日。東京日日新聞福島版。
 〔原町天理教信徒六十名は十八日の奉仕日に雲雀ケ原の整地作業に奉仕〕

 そんな中で、昭和15年8月に中村教会で行われた特別講演において、東北伝道中の東京神学校長村田四郎の舌禍事件が起きた。

 昭和15年8月20日・福島民報。
 不穏当な言辞を弄し
  日本神学校長
   中村署で取り調べ
先づ日本人に帰り新東亜建設に挙国一致の戦時体制下に在るとき東京市渋谷区竹下町一五日本神学校長中村四郎(五四)氏は東北伝道の途次十八日夜七時半ごろ中村町日本キリスト教会で説教中不穏当な言辞を弄したこと中村署の探知するところとなり十九日午後三時原釜海水浴場から引致され取り調べを受けている

 同じ日付の朝日では次のようである。

〔時局を認識せぬキリスト教講演会
 村田四郎氏中村で舌禍
東京市渋谷区竹下町一五日本神学校長村田四郎氏(五〇)は宮城県古川町で講演後十八日午後八時から中村町日本基督教会堂で同様講演したが十九日午前十一時突如中村署に召喚され三澤特高主任係りで長時間にわたり取調べを受け午後五時帰宅を許された同氏の講演中時局に副はぬ言辞を弄したとの嫌疑によるもので同署では調書を取つた上始末書を取り、この処分問題については県特高課に一任した、右につき阿久津署長は語る
 日本国民が神様に礼拝してゐるが偶像に礼拝しても何になる、また支那民衆が欧米依存の念がなくならない等といふことは興亜のため力を注いでゐる現在のわが国体にとってゆるせないことだ〕
(東京日日新聞福島版昭和15年8月21日)

 中村教会長老の鎌田昌次郎(当時・相馬中学教師)はこの時のことを回想して次のように記している。(中村教会90年史)

 村田四郎先生
 日本神学校長村田先生は大戦間近い頃講演に御出で下さった。基督教会が官憲から睨まれ出した頃であるから、夜の集会の前、先生に特高などが来るかも知れないとお話して先生も充分注意して講演をせられた。翌日午後は鎌田宅で、婦人会の集りがあり将に開会しようとして居た時に警察が来て、先生は警察署に出頭を命ぜられた。一寸のことだと思って待って居たが遂に夕方まで帰られないので会は流会となった。前夜の集会に特高が来て居たのであった。先生は何も法に触れるような事を話されたのではない。当時日本軍は支那に宣撫班を派遣して居たので、宣撫は愛情を持ってしなければならないという話から、例として、アメリカの婦人宣教師が支那の田舎に入り、真の愛情を持って伝道し世話したので、人々は非常に懐き尊敬し、多年生活を共にした宣教師が引き揚げる時は、人々は別れを借しんで悲しんだ。こういう宣撫の仕方は立派である。というような話をされたのである。
 ところが日本の宣撫を批判し、アメリカ人を賞賛したのが良くなかったのだそうである。何でもない当り前のことさえ述べることが出来ない怖ろしい時代であった。基督教関係の牧師さんや教師などで投獄されたり、拘引されたり、其他辛い目に遇った人々が多数あった。鎌田も教会関係であり、外国人と交り、文通して居るとのことで憲兵が来て、学校長を通じて調べて行った。又正式ではなかったが、県教育委員の一人から、教会で話をすることは注意した方がよいと言われた。
 然し学校内で伝道するのではなく、教会で話するのは信仰の自由であるから差し支えないと思い話は止めなかった。精神作興週間というのがあった時、中学校では生徒銘々に祈願文を奉書紙に書かせ、之を集めて桐の箱に入れ、中村神社に奉納するということが職員会議で決議されようとした。クリスチヤンは之に賛成することは出来ない。若しどうしても強行するならぱ、基督教関係者を除いてやって貰い度いと鎌田は反対し、遂に実行されないで了った。又、防諜週間などがあった時には特に教会が誤解され、スパイする者が中に居るようなことを言われ甚だしく迷惑したこともある。

 古山牧師はこの事件について相馬市史の記述で次のように言及している。

 その頃中村教会では藤本牧師が着任間もなく(八月十九日)日本神学校長村田四郎氏を招いて特別伝道集会が行われたが、たまたま説教テキストが「この他の者によりては救あることなし」(行伝四ノ二一)が当局の忌避に触れて警察に抑留され、翌日予定された教会婦人集会はお流れになった。教会に出入りする者は信者求道者を問わず刑事が家庭を訪問しスパイ嫌疑で尋問するという有様、従って未信者婦女子の出席は減少、教会の維持すら困難であった。古山牧師は時局の前途容易でないことを洞察、折柄同志社大学の大塚教授の特別の招きで二ケ年間大学院での特別研究を許されたのを機会に教会を辞去して十六年四月上洛した。その後原町教会は無牧のまま会堂は鉄道教習所に強制借り上げされた。
 戦局は苛烈になるに伴い宗教団体法及治安維持法等の戦時立法がいよいよ強化適用され宗教活動は極度に制約され、ついにはすべての集会は停止されてしまうありさまで、一般信徒の中には官憲の偏見をおそれてあるいは転向し、あるいは惑わされて信仰をすて、時局の中に埋没するものも続出した。そのような状態の中で藤本牧師は国家総動員法で徴用を受け海軍省航空廠に勤務を余儀なくされ、教会は牧者を失って殆んど閉鎖の有様になったのである。
(相馬のキリスト教 相馬市史より)

 昭和16年には中村教会が独立した、との報道がある。
 昭和16年9月23日・福島民報。
〔中村独立キリスト教会建設式
中村独立日本キリスト教会建設式は二十一日午前十時から大手先の教会で行はれ準備委員五木田薫氏の経過報告後既報の長老並に主任牧師の□職式に次いて東北中会派遣委員角川桂嶽、梅津吉之助両氏の宣誓、問安、祈祷並勧告があって祝辞、祝電の披露で盛儀裡に式を閉ぢた〕

 ここで独立とあるのは、自給独立のことである。伝道教会という名称は、補助金をもらって援助される段階。つまり外国からの援助で、外国のイデオロギーを取り入れた宗教は自主的なものでなく日本人にとって相応しくないとの判断によって、すべての日本のプロテスタント教派は国家の要請で昭和16年に強制的に合同させられた。
 プロテスタント諸派の合同は、明治以来の悲願ではあったが、自発的なものではなくそれが天皇制の下での国家による命令による合同であったことは同教団の戦後の原罪となった。
 教会が援助を受けて存立するのでなく、自給独立することは、信仰者にとって誇りとなる。しかし昭和16年時点での独立というのは、まったく国家の要請に対応するものといってよい。

 藤本光栄(中村教会元牧師)の回想
 
 「徴用令書を受けた日は長女が亡くなりお通夜で取り込んで居る時でした。それから一週間して相馬を立たねばなりませんでした」
 と藤本牧師は回想する。以下同じ。
 私の牧師在任中の事を考えても、昭和十五年に就任しましたが、其の二、三年前から軍国主義の色調がこくなり、キリスト教が国家主義と反するものと考えられ、昭和十五、六年になると特高警察が教会の講壇説教にまでもふみ込んで来るようになりました。日本神学校の学長・村田四郎先生が中村教会で伝道説教をした時、私服の特高刑事が聴衆の中に入って来て説教の内容が日本の国家主義と反するとの理由で拘引され、警察に留置される時代でした。
 昭和十六年日本が戦争に突入する事によって伝道が更に困難になって来ました。牧師である私も国民総動員法で徴用を受け、海軍省の航空廠に勤務をよぎなくされました。
 当時徴用を受ける事は軍関係の労務につくのが普通でしたが、人事課長が私の履歴を見て海軍省内にある青年学校の教官に任命しました。戦争が烈しくなり、学童疎開で都市区から比較的安全と思われる田舎に疎開が為されて居ましたが、中村教会も学童疎開の生徒を受け入れるようになったと妻から手紙で知らされました。戦争当時キリスト教は敵国アメリカの宗教と考えられ、私の留守中しばしば特高刑事が玄関に居座ってスパイ活動でもしているのではないかと妻は問いただされました。
 先輩の牧師の中には信仰の故に獄に投じられた者や「天皇は神ではない」との当然の事を言う事によって獄死するものも居ました。まさにキリスト教信仰史に於いて苦難の多い時代でした。(九十周年記念集)

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