小高銀砂工場への空襲爆撃

昭和22年の小高銀砂工場

 その中に、世の中は、だんだん戦争へとかり立てられていきました。が、まだまだ田舎はのんびりムードでした。結婚前年の昭和十二年八月、小高にも国防婦人会ができ、姑が初代会長になりました。母のところへは、会員の婦人たちが朝から集まってきました。割烹着にタスキ掛けといういで立ちはいいのですが、朝からお酒を飲み、歌や踊りの国防婦人会です。お酒を一滴も飲まない家で育った私には「お茶を持ってこい」と言われ、美味しく丁寧に入れたお茶を運んで行きましたら、「そんなお茶ではないよ。おチヤケだよ、お酒」と言われたのには驚きました。世は敵前上陸を予想して、竹やり訓練も始まり「エイや、エイや」とかけ声をかけての訓練を今思うと冷や汗ものです。
 昭和十六年の太平洋戦争もたけなわとなり、主人の弟や妹の婿も陸軍、海軍へと応召されました。そして主人は日立、東芝、中島飛行場から五名ずつの勤報隊員を与えられて軍需工場として生産に励みました。しかし戦争も、初めの勝利は遠のき悲報が飛び交うようになり、終戦の年の八月七、八日の空襲で原町飛行場、夫沢飛行場爆撃のB29は、煙突から煙が出ている工場に小爆弾、焼夷弾七発を落として飛び去ってゆきました。その一発が住宅の一角で発火し、住宅の半分は焼けてしまったのです。

つづき
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