日基原町教会の躍進時代

 成瀬氏75年略史より続き。 「宗教法人設立  原町教会は第一種教会設立を見て更に前進を期することに成ったが若い男女の夜の外出が規制される状況にあつたので定期集会を変更して日曜夜の集会を中止し、家庭集会を毎週実施することとしたが各家庭が進んで家庭集会を申出て本年中に実施した家庭が十八家庭に及んだ。  即ち成瀬牧師宅、松本政隆宅、高篠あい宅、田村あい宅、北野千代乃宅、野崎静雄宅、田丸清宅、谷津田則文宅、寺島春義宅、遠藤しげ宅、遠藤よしえ宅、朝倉巌宅、松浦圭子宅、折笠晴二郎宅、安川延子宅、横田瑞子宅、鈴木静江宅、阿部喜一宅等であつた。
 昭和二十六年(一九五一)の特別事項としては本年度から鹿島町の基督教婦人矯風会支部に聖書研究会を開始し、将来鹿島伝道所開設の予定で毎週成瀬牧師が出張伝道を実施することになった。  また昭和二十六年度のクリスマスは大親睦会を計画し、広くクリスマスの喜びを分ち合うこととし柳屋旅館(会員松浦圭子方)の好意により同館を会場として八○余名が参加して盛会であった。殊に青年会の活動が活発となり、近隣の教会にも応援に出かけた。附属事業聖愛保育園も順調な運営を続け殊に母の会の活動が活発で秋市、野馬追祭等を期に食堂、売店を市内要所に開店して、事業のための収益をあげた。  昭和二十七年(一九五二)には宗教団体法が廃止となり、新たに宗教法人法が制定されたので当教会も宗教法人の認証を受けることに成り七月二十四日附宗教法人「日本基督教団原町教会」として登録を了した。  青年会では伝道活動の一環として毎週土曜毎に鳥居陶器店角で路傍伝道を実施し、クリスマスイヴには聖歌行進を実施して三十余名が参加し二班に別れて市内要所及信徒の家に聖歌を送った。

ラクーア伝道と鹿島栄光教会

日本プロテスタントキリスト教一世紀の歩みは、封建制打破の維新革命に始って、敗戦により昭和の平和革命の途上に到った。その間欧化主義の波に乗って伸び、やがて国粋主義の反撃に曝され、三たび戦争の試練をくぐってプロテスタント教会は一つの合同教会をこの国土に形成した。そして、戦後日本を風靡したアメリカデモクラシーはキリスト教に幸いするかに見えた。
 昭和二十五年(一九五〇年)に始ったラクーア特別伝道は、我が国が明治初年初めて外国宣教師を迎えて以来宣教百年を記念するプログラムの下に活発な伝道活動が行われた。
 ローレンス・L・ラクーア博士は第二次大戦中米海軍付牧師として従軍したが、退役後自ら貯蓄した資金を以て全日本に伝道するため音楽団をひきいて来日し、日本キリスト教団と提携し福島県をはじめ、全国各地区に三十四の伝道センターを設け、それらを援助し開拓伝道に当った。
 ラクーア一行は一九五〇年六月二十日貨物船サーブライズ号で横浜に到着して、横浜フライアージムに於ける、伝道集会は聴衆二一、○○○人、決心カード署名者一、五〇〇名、献金一五、○○○円に達したのを手はじめにラクーア伝道団の人気は全日本にひろがった。十月伝道団を迎えて鹿島町では小学校庭に舞台をしつらえて開催され全町を挙げて未曽有の盛況を呈した。ラクーア音楽伝道団は五ケ月にわたり全国二一八の都市を訪問して伝道集会を開き、多大の成果をあげた後、この年十二月十一日一行はアメリカに帰った。
 その後、昭和二十九年以来、毎夏センター教会を助け、この後六年間に来援した外国牧師夫妻は一八一名に及んだ。就中福島県には十ケ所のセソターが設けられ、浜通りに於ては鹿島センターが選ぱれ、今日の鹿島栄光教会の設立が進められた。責任牧師として原町教会の成瀬高牧師が当られ、その指導の下に東京神学大学出の江原淳民が初代牧師となられた。毎夏来援した米人牧師を中心に伝道礼拝、聖書研究、婦人会、学生青少年キャンプ等各種集会を重ね、年々受洗者を加え、一九五五年(昭和三十年)ホワイト博士は七、八両月ここに駐在して一〇名の受洗者を出した。かくて一九五九年(昭和三十四年)教会員四八名に及び急テンポに教会形成が進められた。
 尤もこのラクーア伝道と前後し、寧ろこれに先立って婦人矯風会運動が活発に行われ、矯風会々頭久布白落実、副会頭竹上女史らの数次の来援があり、成瀬牧師その他の指導により聖書研究グループがもたれて来た。当時これらの諸集会の中心として奉仕活動されたのは植松周、村井千鶴、桑折ツヨ姉等であり何れも鹿島栄光教会の創立にあづかって力ある人々である。更に遡れば昭和の初期、多田吾助牧師(原町下町教会)の熱心な伝道の結果、西畑亀雄、天野有平その他が真野川で浸礼を受けた信徒の群がある。原町教会牧師諏訪修治氏も当時(大正十四年)東北中会宛報告の中に「鹿島町は余程以前に当地(中村)から出張して集会が続けられた所ですが、近頃数名の信者、求道者が出来ました」と報じている。
 かくて出張兼牧の時代、教会前史を辿れば約四十年の経過を経て鹿島町字町五十九番地に借家、鹿島センター会が発足した。超えて昭和三十一年四月現在地(御前ノ内八七番地)に移り、土地一七二坪を取得、一九六〇年定礎、教会堂、牧師館、幼稚園舎を建築移転する。米国教会援助金九〇万円、国内教会献金約二〇万円であった。昭和三十四年十月十五日、宗教法人鹿島栄光教会設立認可、翌三十五年五月四日教会附属みくに幼稚園設立認可、定員四〇名を以て保育開始、翌三十六年四月第一回卒業生四〇名を送り出す。当時鹿島町に於ける唯一の幼稚園として町内全域から入園した。
 歴代牧師は初代江原淳に次いで野村幸男、古屋朝則を経て現在古山金作に及んでいる。

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