浪江伝道と復興教会

 相馬中村を基点として南下した浜通り伝道によつて原町、小高教会が設立されたが、明治四十三年、小高に杉山元治郎牧師が赴任、同年九月中村ことと結婚、大正二年自宅に農民福音学校を開設、地方農村教化に当った。大正九年大阪に移るまで在任十ケ年、当時小高より浪江に出張、医師大井三蔵氏宅を伝道所として、日曜学校を開設、伝道礼拝を守った。ここで大井院長自ら率先して受洗入会、続いて眼科嘱託医清宮嶽之助氏(現俊夫氏父君)一家が信仰に導かれ、大正十年月はわからないが大井ユキ(不二夫氏夫人)、岡田栄、他の三名が仙台教会萩原信行牧師より受洗入会、浪江教会の先鞭となった。そもそも浪江の開拓伝道時代は明治三十年代に吉田亀太郎牧師によって中村教会より、次いで土田熊治氏により原町教会より出張伝道されたが、杉山元治郎牧師のあとを阿曾沼幸之助牧師が受けついで小高より出張兼牧されたらしい。
 浪江伝道所に専任牧師として定住されたのは昭和三年四月、東北学院神学部を卒業され最初に赴任された蓬田吉次郎氏にはじまる。浪江駅前の二階建の借家に日本基督教会浪江伝道所の看板がかけられて以来である。これが浪江伝道の中期というべきであろう。つづいて昭和七年頃、白石教会より大和吉五郎牧師が定住されたが教勢は不振で長く続かなかった。昭和十三年小野寺恭司牧師が小高教会より出張兼牧されたのを最後に殆ど教会は中絶の姿で活動を廃止していた。
 戦後、教団は新日本建設の基本計画として教会の体質改善と伝道圏伝道を打出し、東北教正は十二の伝道圏を設定し、相双地区はその一地区として牧師会を中心に各教会牧師は率先協力して自発的に廃絶した浪江教会の復興と更に浪江をその南進基地として集中伝道を試みた。昭和三十六年六月、その宣言大会(浪江クルセード)を浪江駅前の旅館白木屋の大ホールで開催、地区牧師が先頭に立ち、東北学院大学から日下一教授が女子聖歌隊(キャロラーズ)十数名を率いて来援し、”現代人の理性と信仰”について強く訴えられた。全町民各層の多数参加があった。超えて九月、宍戸七弥牧師が一家をあげて米沢から来任、浪江は正式に伝道所としてスタートした。宍戸牧師は伝道牧会の経験と柔和な人格の持主で浪江の町をはじめ周辺の農漁村を隈なく訪問し、古い信者を掘り起し、新進の青年学生を集めて精力的な活動をつづけられた。教会も居を転ずること三度、現在地(浪江町鬼久保三九)に落着いたのは復興伝道開始後十年目、敷地はいわき教会からの九〇万円の寄付を基として一七〇坪の中に閑静な牧師館と続いて瀟洒な会堂が建てられ、昭和四十六年九月二十四日、地区合同礼拝を兼ね創立十周年記念礼拝が祝福の中に行われた。忘れてならないのは和子夫人が音楽教室を開いて地域の音楽教育とその普及につとめ、併せて教会自給の一端を扶けられたことである。
 浪江伝道は吉田亀太郎氏の明治三十年代に始まり、杉山元治郎氏の開拓伝道を第一期とし、昭和の始め蓬田牧師が定住以来戦前戦後にいたる三十年を第二期とし、新たに復興伝道開始以来約二十年を第三期とする約七十年に及ぶ。宍戸牧師による創立(実は復興)十周年記念をその頂点とする。
 宍戸牧師は直後交通事故に遭い身体障害者となり、切角療養につとめられたが遂に、教会を退かれ仙台に閑居静養されたが四十九年の末不遇の中に天に召された。
 浪江伝道については古くからここに救世軍小隊がおかれ、常時複数の士官によって受けつがれ(昨年会館を新築)、他方双葉郡大熊町に本拠をもつ保守バプテスト教会が活溌な伝道を続けている。(相馬市史p469-471)

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