フェアリー ファイアフライ (Fairey Firefly) は、イギリス、フェアリー製の単発レシプロ複座艦上戦闘機。ファイアフライとはホタルの意。フェアリー社では同社製作のフルマー戦闘機の後継として開発していた。
諸元 乗員: 2名
全長: 11.64 m (37 ft 7 in)
全高: 4.14 m (13 ft 7 in)
空虚重量: 4,254 kg (9,460 lb)
最大離陸重量: 6,359 kg (14,020 lb)
性能 最大速度: 509 km/h (4,300m) (316 m/h (14,000 ft))
航続距離: 増槽つきで1,722 km (1,070 miles)
実用上昇限度: 8,530 m (28,000 ft)
武装 * 固定武装:イスパノ・スイザ HS.404 20mm 機関砲 4挺
搭載量:1,000 lb爆弾 2発 もしくは 60lb ロケット弾 8発
イギリス海軍は仕様書N.5/40を発行したが、この内容は艦上複座戦闘機を開発するというものであった。当時イギリス海軍は何もない洋上で安全に行動、帰艦するためには操縦士の他に航法士の乗機した複座であるべきとして、戦闘機においても複座に重点を置いていた。しかし、日米の戦闘機は単座でありながらも問題なく洋上航法をこなして行動できていた上、複座であることは重量の面からも単座戦闘機に対して明らかに不利であり、実際にフルマーは近代的な単座戦闘機に敗北を喫している。
この仕様に基づき、フェアリー社のH・M・チャップリン率いる設計チームが開発したのがファイアフライである。エンジンはロールスロイス・グリフォンIIBエンジン(1730hp)が使用されることとなった[1]。この機体は、戦闘機としては当時かなりの大型機であったフルマーよりもさらに重く、自重ではおよそ400kg、全備重量になると1.5tほども重たかった。この自重4,254kgは空軍戦闘機であるスピットファイア(Mk.V型)のおよそ倍、全備重量6,359kgは重量過多で悩まされたバラクーダ爆撃機の全備重量とほぼ同じ数値である。
しかし、フルマー以上に空力的に洗練された機体形状、フルマーMK IIよりも出力が400hp程度上昇したエンジンにより、最高速度はフルマーMk II型よりも60kmほど上昇している。また航法兼通信士が座る後部座席は密閉型となっており、後部座席が機銃座を兼ねることが多い単発複座機において、この機体の外見的特徴となっている。フラップには新たに特許を得たヤングマン式(フェアリー・ヤングマン式とも)と呼ばれるフラップを採用、低速下での高揚力を実現、空母への高い着艦性能を保有することに成功している。[2]
1941年6月にはすでに200機の発注を得て、9月にはさらに100機もの追加発注をされたこの機体の試作機は、1番機が1941年12月22日に飛行、2番機は1942年6月4日、3番機は同年8月26日に初飛行した。1942年6月にはさらに300機の発注がなされた。そして1942年8月26日に生産が開始し、その後1943年3月4日に最初の生産型であるF.Mk I型[3]がイギリス海軍ヨービルトン航空基地(en)に引き渡された。ただし実戦配備は引き渡されてからしばらく後であり、10月になって第1770飛行隊の結成とともに配備されたのが初の実戦部隊配備となる。そして実戦参加はそれよりも10ヶ月ほど遅い1944年10月であり、空母インディファティガブルに同航空隊が配備されてからであった。
ファイアフライ初期の任務は主にドイツ占領下にあったノルウェー沿岸における武装偵察および該当海域での敵船舶攻撃であった。また、1944年8月24日に行われたティルピッツ攻撃では攻撃隊の護衛任務を行っている。なお、この護衛は第1770飛行隊が行っている。
ドイツとの戦いがひと段落した1945年には太平洋に進出(ティルピッツ攻撃に参加した第1770飛行隊も同様に太平洋に進出している)、イギリス太平洋艦隊(en)のほかの艦隊とともに日本軍が占領したオランダ領東インドの製油所や飛行場攻撃に従事、1945年7月には東京上空に進出した。これは第2次世界大戦におけるイギリス軍用機としては初の日本本土上空進出であるとされる。
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