「伝部隊」終末記・当時の参謀長に聞く

 終戦直前、福島に新設部隊が置かれた。司令部は当時の福島高商(現福大経済学部)が当てられた。第七十二師団、通称”伝部隊”である。これを軍内部では”ハリツケ師団”と呼んでいた。敵の本土上陸に備えて海岸線一帯に部隊を配属し、絶対に後退はならぬ犠牲部隊との謂いである。しかし間もなく終戦によってこの悲劇はなくて済んだ。したがって福島師団はわずか五ヶ月の短い歴史で幕を閉じた。このため県民でさえ福島に師団のあったのを知らずに過ぎてしまった。伝部隊参謀長(現福島市福祉事務所長)に当時の思い出を聞いてみた。
 
 語る人 半井顕雄(五九)
 山口県萩市出身、陸士三十期卒、大正七年少尉に任官、同九年陸大入学、そのご情報、作戦参謀をつとめて大佐に昇進と同時に第七十二師団(伝部隊)の参謀長、終戦時は二十二年地方世話課長を拝命、ついで県世話課長となり、現在福島市福祉事務所長。

 終戦一年前の十九年七月、仙台に東北では珍しいほど内容の充実した師団が創設された。これは量的に優れる米軍に対して防衛と反撃の任務を持っていた。東北から関東に転進して反撃作戦を展開する部隊で、当時としてはきわめて優秀な師団だった。私は命によって参謀長をつとめ、攻守両面を兼ね備えた性格の作戦準備に没頭していた。このうちに情勢が急変したため、二十年四月この師団は福島県に移転し、福島高商内に”伝部隊”の門標を掲げて駐とんした。当時の師団長はここに生まれたのである。
 この師団の任務は敵の上陸部隊を迎え撃ち背後の国民を安全に守るという特殊な指令で、夜もろくろく眠れなかった。そうこうしているうちに八月十五日突然休戦命令を拝して驚いた。そこで私は一万八千名におよぶ師団将士の解除処理問題に専念した。九月はじめだったか、いっさいのリストをつくって米占領軍に引継ぐ準備を進めていたところにニューヨークの歩兵連隊がドヤドヤやってきた。その先頭には十数名の護衛を伴ってキャシャな連隊長がやってきた。きのうまでの敵との初会見である。参謀室のドアを開けてバタバタと入り込んだ米軍連隊長の手は拳銃の銃把にふれてブルブルふるえていた。そうなるとこちらはわざと落着き払って□のブローニング銃を机の上に投げ出してあいさつを交わした。米軍にとってはなんとなく薄気味悪い参謀室だったらしい。
 すると連隊長は「直ちに師団を解散せよ」と鋭い語調で命令を下した。参謀室の周りには自動短銃で身を固めたものものしい姿の」米軍護衛隊数十名がグルリと取りまいている。ちょうど幽閉所のようだった。そこで私は「まだ師団の解散はできない」と拒絶した。すると連隊長が両側に立っていた幕僚の顔を左右に見わたしながら「いうことを聞かないのか。まだ戦闘をする気か」とカン高い声でどなりつけ拳銃に手をかけた。そのたびごとにガラス越しの護衛隊の視線が大きく光っていた。そこで私は「そんなことは考えていない。戦闘行為は天皇の命令で終ったのだからね」といって米軍の興ふんをおさえ、つづいて「そう性急に部隊の解散を命ぜられても、いままでの整理が山ほどあり、さらに一般国民にたいする支払いも済んでいないのだからね。これらの終□が終ったら直ちに解散するつもりだ」と一席ぶったら、さすがに民主国家育ちだけに納得して「オーケー」といって帰って行った。
 こんな事態は終戦の過渡期には誰しも体験したことだが、私の悩みはさらに深かった。それは引続いて終戦事務に当ってきたためである。私は「リオチイー伝」を読み、かつてモロッコに進駐したリオテイー将軍が第一次欧州大戦後、社会事業に挺身したことを思い起し、ひとつの罪ほろぼしに専念している。大戦のあとには必ず人道、平和、博愛主義がほうはいとして起ってくる。なんとか恒久平和の理想郷がほしいものだ。
 昭和31年5月6日

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