桜花と鷲翼の特攻マーク 藤田魁

藤田画伯と尾翼
花吹雪を知る
久木田中尉来校 昭和二十年五月、折しも大東亜戦争はいよいよ決戦のたけなわの時期であった。原町飛行場の将校「久木田中尉」という方が、当時私の勤めていた中学校(相馬中学)の校長に面会を求めて来られた。授業中のことである。私は校長に呼ばれ、校長からこんな話を受けた。「この方は、現在原町飛行場におられる特攻隊の久木田中尉とおっしゃる方であるが、頼みごとがあっておいでになったのだ。というのは、いよいよ近日中に飛び立って行く命令をおうけになったそうだ。やがて敵艦隊目がけて征かれるわけであるが、中尉殿は「わが隊の十二機の尾翼に、特攻の意味をあらわす大きなマークを描いてほしい。何かて適切な生徒を選んでその仕事に当ってくれないか。」・・・「そうですか。わかりました。おきに召すようなものができるかどうかわかりませんが、その仕事をさせて頂くことには非常な名誉と責任を感じます。喜んでやらせて頂きましょう。」
久木田中尉は、わが事なれりとばかり、満足、且つ安心して帰られたようだった。
資材調達 それにしても必要なのはペンキである。私は赤色と白色の二種をきめて町中を探したが、物資不足の極点に来ている時、何処を探したって見当たらなかった。ところが、当時私の受け持ちクラスは、本やペンとは別れを告げ勤労奉仕のために昼夜交代で原町紡織会社染色部に奉仕作業をしていた。自宅通学はまかりならず、戦闘帽・巻き脚絆といった姿で、指定の寄宿舎から通っていた時で、夜森公園の東入り口に梅野さんという下宿屋があり、そこが生徒達の寄宿舎に当てられていた。
当時飛行場の一画にあった原紡は軍需工場で、軍服地を織り、カーキ色に染色するのが仕事であったから、万一あるかも知れぬと思じゅ「ここをたずねてなければ万事休すだ」と考えて、私は古橋工場長に会い、交渉してみた。すると、ああ嬉しやありがたや、欲しいと思ったペンキはあり、必要量だけ、ぜひ使ってくれ、とのこと。欣喜雀躍、生徒達もおおいに悦んで、さっそく仕事にとりかかった。
桜と鷲翼 図案は私が考案した。大型の桜花一輪と尾翼の中央に描き、その左右に花を囲んで、空の王者荒鷲の翼だけをデッカクつけた。純真無垢の学徒の心は高鳴り、腕はうなって。草いきれの中、陽に焼けつつ、連日夢中になって描いた。桜花一輪は深紅、これは熱血火と燃える忠勇義烈の大和魂、身を捨てて尽忠報国の赤心。鷲の両翼は、大空をかけめぐる鳥の王者のそれで、白色で塗りつぶしたのは清浄潔白、他心なしの意味をもたせた 意図の表現だった。
久木田隊長はじめ 隊員の方々はこれをごらんになって非常に喜ばれた。
同乗御招待 それからまもなく、いよいよ特攻機が編隊を組んで原町を後に別れを告げる日が来た。その前日のことである。久木田隊長はお忙しい中をわざわざ再た私の学校に訪ねてこられた。
「英雄 閑日月有り」決別のご挨拶を兼ねて特別の申し入れに凝られたのだった。
「この度は、生徒諸君の特別なご協力によって一機もれなく立派な標識を描いて戴いた。私どもは標識の持つ意味を肝に銘じて最後のご奉公に赴き、必ず敵艦に殴りこんでこれを撃滅する覚悟です。最後のお別れに来ました」・・・・・
「ついては一つ、お願いがあるのですが」といって、次のようなことを申された。
「標識を見て一同は嬉しさに感無量の心持を抱いております。しかしお礼といっても何も出来ぬ身、そこでお別れに当っての恩返しの意味で、本日これから藤田先生を始め十一名の生徒諸君をお招きしたいのです。ご苦労様ですが、将来の思い出のためにも機上から相双二郡の郷土の地を見せてあげたいので、ぜひ飛行場まで急ぎ着てもらいたい。学校長のお許しも得たことだし、是非に」との事であった。
私はじめこのかた、ただの一度だって、飛行機に乗った者はいなかった。まして大東亜戦争の勝敗がまさに決せんとするとき、すでに見を挺して敵艦に体当たりする覚悟もきまり、「明日はお発ち」の時である。私どもを各自の愛機に乗せて、今生の思い出を作ってあげたい、との切なる申し入れに対して、時も時、人も人、所mじょ所、この申し入れを聞くとは是か非かと私は返答に迷った。
千載一遇の好機ではあっても、余りのご好意に接し、不安と申し訳なさの苦痛があった。
そこで、校長に意中を話すと、「君の心はわかるが、折角のご念だから謹んでお受けしたがよい。少しも早く関係者を連れてゆけ」とおっしゃる。
私は意を決して急遽十一名の生徒を招集し、意を含めて、先に帰られた隊長殿のあとから飛行場へとかけつけた。

美しい相双の山河
着いてみれば、すでに十二機は整然と並び飛び立つばかりの用意で私共を待ち構えていた。代表者である私は、久木田隊長殿にご挨拶申し上げた。
「明日はいよいよご出陣の由、私達がご奉仕申し上げたほんの小さな仕事のために感謝を表すと言ってくださる事に対し身に余る光栄に存じます。万感迫って言うすべも見出しえません。ただ、折角のお申し入れを無下にお断りするのも如何と存じ、心を無にして参上いたしました。私共の感謝と恐縮の胸中をお察し頂ければ幸せでございます」
「よくわかりました。世に一樹の蔭も前世の縁というではありませんか。何も思わずすぐ機上の人となってください。一番機は隊長機で私が操縦します。藤田先生が乗ってください」
といわれ、生徒もまた次々に、二番機、三番機と一同順を追って乗せてもらった。やがて、機体は滑走ののち適当な間隔をおいて東に向って飛び立ち、旋回して機首を南に向け、高度が百、二百となるにつれ速力も速くなったが、とくに速さを増す事はしなかったようである。
機中には、操縦席以外、邪魔物は全部取り払われていた。少しでも機体を軽くせんとの計画だったろう。私共は機内でじかに尻をつき、腰をかがめて乗っていた。
まず、眼下に上太田の部落が見えて、私の家も区長さんの家も手に取るように判った。太田川の細い流れも畦の原の広い松林も見えた。またたく間に小高の大富・川房の部落から、双葉郡の苅野・大堀の上空を通過して機は左に向き、東に向った。
両竹もろたけから請戸浜に出ると、今度は北上、太平洋の波打ち際を飛んだ。小浜・萱浜・蒲庭・松川浦河口の上空から、今度は西へと方向をかえた。なんでも午後の四時頃でもあったろうか。機首が西に向き、阿武隈の山脈を見た時、おりしも赤い夕陽が山並みを照らし、渓間の暗い青緑色とが織り成す美しさにしばし我を忘れ恍惚と眺めていた。
相双の海岸線の景観もまたすばらしかった。突如空中で小さな落とし穴に入ったような気がした。これがエアポケットというものかと思った。機が、相馬中村・馬陵城址の上に来た時、南に方向をかえて飛んだ。八幡神社が見える。富沢の里も、車川・小池の上も通過し、原町・牛越の舘跡のあたりから旋回降下して、ようやく元の飛行場に着陸したが、上昇の時と降下の時はものすごい爆音と、草原をなびかす強風のすさまじさにいささか度肝を抜かれる思いがした。所要時間、約三十分、速度もわざとゆるめて飛んだとの話だった。ともかく、得がたく胸迫る体験であった。p24-25

別れの宴
その夜は、町内有志に人々が、久木田隊を囲み、最後の晩餐をともにした。もちろん、私も加わっていた。忘れがたいのは、送別の挨拶が終わった直後、地元の日露戦争の勇士加藤軍曹が、三尺の愛刀を隊長に贈呈してその行を励まされた事だった。今宵は原町の地酒を大いに飲んで頂いて思い残すことなくお別れしようと、呑むほどに酔うほどに、歌や踊りは勿論、一芸一能何でも披露しようと、夜の更けるのも忘れての饗宴であった。
征く機影
明くれば愈々訣別の朝がやって来た。手に手に日の丸の小旗をかざし、町民の大方は仕事をなげうって飛行場にかけつけた。小中学校、女学生も全校飛行場に赴き、さすが広大な飛行場も、陣列を作った人の波、旗の波で一杯だった。送る人、送られる兵士、その内心はさまさまであったろう。成功を祈ると叫ぶ人、別離の悲しさに涙する人、兵士を励ます軍歌の合唱、さまざまな姿。真剣な場面がそこかしこに見られた。時刻がきて白布のテーブルに、飛行場長・上官らとむき合い、別れの盃を交わす特攻兵士、そして次々に起る十二機の爆音。いよいよ出陣。つらい別離。二十歳を越えたばかりの坂桜が、たとえお国のためとはいえ、一身を犠牲として愛機と共に住み慣れた町を飛び立ってゆく。大声で叫ぶ万歳のどよめき。ちぎれよとばかり力こめ打ち振る日の丸の旗。機影が編隊を組んで南へ去ったあとまで、場内に沸き起こった感激の嵐はなかなかに冷めやらなかった。
慰霊碑建立
月日の小車はめぐりめぐり早くも三十年の歳月は流れ差ってしまった。去る四十五年春のこと、市内にお住まいの八牧さん等を始め生存陸士出身の方々が、奮起され、心ある人々のご賛同を得て、慰霊碑を建てることになった。場所は元飛行場を見下ろし、眺望ゆたかな原町公園墓地の一画である。主体は、飛行服に身を固めた一兵士が挙手の礼に別れを惜しむ勇壮無比の立像であるが、私は発起慰霊祭の時に、モデルとなる写真から碑の主体となる勇士像を抜き出して描いてくれ、と依頼され、心こめて描いて差し上げた。今年は終戦から満二十九年。去る五月の慰霊祭には、遠くは鹿児島・佐賀方面からまで馳せ参じられたご遺族の方々もあり、当時を偲ぶ想いの数々に語り明かされたとか。
生存者と地元民の、温かい友情から始められた、この意義深い慰霊祭のご盛会を祈りつつ、当時を偲んでペンを執った。最後にご遺族の方々のご多幸をお祈りしてペンを擱くことにする。
原町市上太田字礼堂内2 藤田魁(はじめ)

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