山本卓美山本卓美

陸軍幼年学校41期 陸士56期。
陸軍特攻「勤皇隊」隊長 同乗林長守伍長(通信)
原ノ町駅頭にて。
日記;
「美しき思い出、原町」との絶唱を軍隊手帳に遺して母親への形見にした。
「懐シキ原町ヲ去ル
早朝ノ慌シキ暇乞ヒ、駅頭ニテ隊長殿以下ニ最後ノ挨拶アノ宣言ウヲ裏切ルマイゾト固ク誓フ車上ノ人―
最後迄手ヲ振ッテ居ラレタ母上ノ姿ガ眼ニ焼付イテ離レヌ
美シキ想出―原町―サラバ
過去ヲ捨テ、新シキ未来ヘ」
昭和19年12月7日、フィリピン・レイテ島オルモック湾にて陸軍二式複座重戦闘機「屠龍」を改造した特別攻撃仕様の「双襲」機隊を率いて米艦隊に突入。特攻戦死。
弟卓真は富士通元会長

林長守曹長 昭和19年12月7日戦死
当時のレイテの戦況は最悪の事態を迎えていた。特攻攻撃にも米軍が慣れて当初のような戦果が期待できなくなっていた。乗員も訓練不足で敵上空に達する前に撃墜されてしまう状況だった。そうした中、林曹長が上官の命令に反抗してまで出撃したことが紹介されている。

林は少年航空兵出身で朝鮮人として最初の特攻隊員であった。隊長の山本は技量が抜群の彼を、日本に帰して少年飛行兵の育成に当たらせたいと思っていた。隊長が「これは命令だ」と言っても、「私のたった1度の反抗です。そういう命令は聞くことができません」と承知しなかった。

その日の戦果は、駆逐艦マハンと輸送駆逐艦ワードの大破。両艦とも米軍じしんによって沈められた。肉弾突撃した半島神鷲として林曹長が大きく報道されたことは言うまでもない。

生きておれば日本社会のトップで活躍したであろう優秀な人材の燃え尽きた最後の瞬間につらなる数カ月、朝鮮人として最初の士官特攻兵の人生が重なっている。その出発の地が原ノ町駅だった。

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