前略。
 10月25日の神風特攻隊敷島隊の中野磐雄の命日を前に、ちょうど70周年だからと何か企画さえすればマスコミ用には売り込めるネタなので、そんな気持ちがあって、何冊かの関係本を読み込んでみた。図書館での展示会でもいいし、簡単な冊子の出版でもいいと思っていたが、いまごろ読むくらいだから、実はあまり興味がない。
 自分でも何度か記事は書いているので、概要については普通の人よりははるかに詳しくは知っているが、ちょっと内容に言及するには、あらためて詳細にわたって調査しておかねばならない。
 今年の命日10月25日には、わざわざ日帰りという忙しい行程で慰霊祭の写真を撮りに原町まで出向いた。すでに11日、12日に、陸軍飛行場関係戦没者慰霊祭の写真を撮りに行って来たので、同じような内容で再々に原町に行くのは、と思ったほど面倒な気持ちもある。
 実はこの時に写真を撮っただけですぐに退去し、あとは片野桃子さんの遺族を訪問するほうに時間を割いて話し込んだので、自分ながら、興味のありどころが特攻隊などにはないことを思い知った。
 近所の大島基重さんに8月にあって2度インタビューしたものの、子供の頃から近所のよく知った人物だからであって、とりたてて中野磐雄を知りたいという気分ではなかった。
 10月25日にも、時間を割いたのはカトリック修道会の80歳をすぎたシスター佐々木美代子さんに会って話し込んだほうに、はるかに思い入れがあった。こちらはブラジル移民史の本つながりで、わたしにも彼女にも深い因縁で巡りあったご縁があった。
 福島の自宅で、かつて自分が書いた中野磐雄に関する記事をすべて洗い出してみたら、けっこうな分量にはなるが、一冊書けるほどではない。どうしても見つからないのが、「空征かば」という鹿島町の森鎮雄が出した中野の伝記についての書評だ。
 バックナンバーは、すべて書斎のダンボールに取ってある。しかし、伝記の出版された昭和62年6月と、その年の10月25日周辺の新聞には、見つからないので不思議に思って、探しものだけで時間を食ってしまった。
 しらみつぶしに調べたら、やっと発見した。理由がわかった。「空征かば」という本が出版された62年6月には書評を書かないでいたから、森さん自身が再版した8月になってみずからあぶくま新報の事務所の私を訪ねてきて本を置いていったので、8月15日の終戦記念日ネタとして8月8日号に書いて記事を載せたので、そのズレゆえに見つけなかったのだ。
 だいいち「空征かば」というタイトルそのものに、ぬぐいがたい不信感がある。
 空征かば、というのは、海行かば水く(水死する)屍(かばね)、という天皇のために
 辺(へ)にこそ死なめ、お側で死ねよ、という軍国主義の最たる強要の歌詞である。
 そんな戦前の価値観をむき出しにした本など、書評をかくどころか読むことさえ恥ずべきだと思っていたから。ただ地元の身近な人間が、宣伝して欲しくておいてきたから仕方なくビジネスとして書いて出した。私は共産党支持者の渡辺モト子さんという母親の親友の同級生に反戦的な内容の手記をこちらから頼んで書いてもらった原稿を載せたいと思っていた。
 結果的に紙面は、特攻隊賛美の本の記事と、反戦的な手記の、双方の取り合わせになった。
 それが、わたしの「遥かなり雲雀が原」という本には、渡辺さんの手記だけが採用されて乗っているが、森氏の本の記事はまったく言及していない。わたしの意識にもなかった。
 こうしてみると、つくづく自分の心の構造も中身も、どんなふうなのか理解できる。
 特攻隊なんか、興味はないんだ。国のために命を捨てるという行為にも、あほらしくてつきあっていられない、という気持ちが深すぎる。
 いわき市の元教員の「マバラカットの空遠く」という中野磐雄についての膨大な分厚い伝記がある。「空征かば」とともに、中野の手紙の部分だけを抜き出して、テキスト・データとして入力はしてみたものの、とてもそのまま特攻隊の礼賛の文章にはできない。
 陸軍の原町特攻隊の多くの若者についても、米軍の空襲で身内を殺された従兄たちの思いを考えれば、とてもじゃないが、賛美すべき文章など書けるわけがない。2014.11.25.

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