昭和7年 雲雀が原に陸軍愛国福島号が飛来した。


昭和9年 雲雀が原に海軍報国福島号が飛来した。

昭和10年、雲雀が原でモトクロス大会開かる。(毎日新聞)

昭和10年 県営飛行場の誘致

県立飛行場設置と県庁舎改築
釘本君熱弁を振ふ
賑やかな県会返り初日
県営飛行場設置に関する緊急建議
近代の進運に伴ひ空中運輸の途拓け軍事上は勿論産業上益々これが発達をせんとする好適の飛行場の発着なきは甚だ遺憾とする所なり、然るに相馬郡俗称雲雀ケ原は東京仙台間の中央に位し従来幾多飛行機の着陸離陸に供し殊に軍部方面に於ても既に好適地として実証せられつつあるを以て之てに適当なる補修を加へ県営として飛行場設置の場合は其の費額に対し相當助成あるべしと聞く、又地元民を於ても之が調査を設け建県営飛行場設置の計画を樹立せられんことを望む
提出者
釘本 衛雄
佐藤 政蔵
太田秋之助
(昭和10年3月23日民友)

昭和11年8月3日 原町短波(二日)
雲雀ケ原飛行場の周囲もいよいよ本格的に実現可能性を加へ陸軍省では極めて最近に臨時練習場として向ふ二ケ年間使用することを申出でられたので、地元原町は開いた口にボタ餅! 二十九日関係委員連が第二師団へ駆付け経理部へ打ち合わせを行ふなど最近の原町々政上には大なるセンセーションが巻起ってゐる
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昭和11年8月11日 原町防空思想宣伝
県立相馬農蚕学校主催防空思想普及映画会は九日午後八時より原町旭公園内納涼会場に於いて開催された夕涼みがてら参会せしもの無慮三千を数ふの盛況で原町郷軍分会及び防護団員等がすべてを斡旋し口野軍政分会長開会の趣旨を述べ福島連隊司令部付中村少佐の防空思思鼓吹の演説ありていよいよ当夜の主題たる「防空日本」七巻を映写した、当夜は野外の事とてトーキーの施設なかりしも一軍人により解説され遺憾なきを期したので大成功を収めた閉会せしは十一時土用明けの夜更けはいとど涼しさを加へてゐた
(原町短波 福島民報)

原町飛行場の開場式にて 昭和11年11月

原町飛行場は昭和12年、県営に移管された。しかし原町当局の熱心がそうさせたが県は乗り気ではなかったと当時の新聞にある。


2015年 南相馬市博物館で「原町飛行場と戦争」特別展が開催された。

昭和14年
追はれる部落民
雲雀ヶ原の七十七戸 太田村長に苦衷を訴ふ
相馬郡石神村地内雲雀ヶ原の一部が将来重要国策地として収用を見ることとなり此の区域内には大字馬場及び南大木戸の両部落中七十七戸の全農家が他に移転せねばならぬ運命におかれることになったので地元村当局は固より県当局でも之れが善後策に乗出し旧蠟中県経済更生課より成島技師等来村如上の部落民と会し満州入植につき慫踊懇談するところあったが遺憾ながら一人の希望者もなく当局の苦心は徒らに水泡に帰してしまったのであった、然るに同部落民の大半は小作農家であるが他に移転するとしても今だに適当の換地を見出し得ず移転期限の逼迫を前にして身辺整理にいづれも焦燥懊悩してゐたが十五日午前十時同地部落民代表古小高五郎、林崎右馬治氏等外数名が突如石神村役場を訪問、村長太田秋之助氏に対し長文の陳情書を提出し善後策考慮方を要求して来たので太田村長は取りあえずこれを受理し慎重その内容を検討したる上何分の回答を為すことを約して別れたるがその陳情書の内容を要約すればおよそ左の如きものといふ

吾等の部落に対し他への移転問題が台頭するに及んで俄然附近の地価が暴騰しそれに諸物価、雇人料等も上騰し搗っし人夫払底で我等は移転先に迷ってゐる我等は元来無資力の小作又は小自作者なれば過去永い間農村不況に祟られてまったく疲弊の極に達してゐる、最近漸く好況に向って来たと思ったら此の土地を立退かねばならぬ、然るにその土地買上補償料では一家の生計はおろか他の既墾地を求めることも出来ぬ、況してや未墾地に移住して数年間の無収入時代をどうして過すことが出来やうぞ、茲に連名一同は途方に暮れてゐる、此際何分のご同情を賜はり我等の嘆願理由を諒としていただきたい(要旨摘録在文責記者)

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