昭和16年 1月、原町飛行場は熊谷飛行学校から明野飛行学校に移った。それまで赤トンボと通称された95式中練習機は布張りの複葉機での航空初等教育だけであったが、全金属製の最新鋭の97式戦闘機14機を使用する本格的な戦闘技量訓練に変った。
○陸軍飛行場騒音に対する町民の苦情
さて、軍事警察面において目立ったのは、飛行場が建設されたための町民の不評であった。
ある家庭では、飼っている鶏が、飛行場の訓練の爆音で卵を産まなくなったという。飛行を中止して欲しいとの要請を分隊長宛に苦情として投書した。大甕村の関頭神社宮司が、これは軍誹謗の文面であるとして、また分隊長代理も「時局を理解せぬ非国民だ」と断じて、伊藤軍曹に命じて分隊に呼び出し、懇々と説諭して始末書を取って釈放したということがあった。
昭和十六年七月九日、原町飛行場で訓練中の及川宏(広島出身・陸軍士官学校53期)が陸軍97式戦闘機の訓練中事故により殉職。
十六年九月、原町飛行場は水戸飛行学校第三中隊に移管された。
十六年十二月八日、大東亜戦争が勃発。
十七年五月、水戸陸軍飛行学校は廃止。原町飛行場は仙台陸軍飛行学校新設基幹校に移行された。
十七年七月、原町飛行場は、鉾田飛行学校に移管。戦闘機中心の訓練が開始された。航空士官学校卒の教育訓練であるので、連日の猛訓練で事故も多発しだした。
翌十八年四月頃より、原町飛行場から直接戦地へ出撃するようになった。
○原町飛行場の練習機が訓練中に二名殉職事故
九月九日、原町飛行場の飯村、武藤の両少尉が飛行演習中に小高町岡田の山腹に激突墜落。死亡事故であった。同日、高山少尉が練習機の頭を離陸時に擦るという事故を起している。(「遥かなり雲雀ヶ原」より)
濁沼の記憶では「九月下旬、水戸飛行学校の飛行機が濃霧のため山腹に激突。検証のため出動。飛行学校側の処理費用は総計約三百円の予算であったが、地元警察署と婦人会の応援援助により全経費三十円内外で処理し、憲兵の活躍に対して飛行学校長から感状を受ける」というもの。ここでは、日付は飛行場関係者の記録を採った。処理内容は担当した濁沼のほかに詳細不明なので併記しておく。
十月二日、飯村・武藤の両中尉の殉職地小高町岡田に慰霊碑建立さる。
十九年七月三十日、原町飛行場の杉本正治(滋賀県)の「双襲」機が、大甕村雫(しどけ)で空中操作訓練中、燃料ポンプ故障により片肺停止し錐もみ、原町東方海上に墜落。殉職した。
十九年八月八日、杉本川口弘太郎少尉が10mの高さから失速し飛行場内に胴体着陸。意識不明の事故。
十九年八月十二日、谷口少尉が不時着負傷事故。川口少尉と同様の状況。
十九年八月二十日、松本逸男(佐賀県)の「双襲」が高平北原の岸壁を敵空母に見立てた超低空飛行訓練で海面に接触沈没。殉職した。
十九年八月二十八日、佐藤品男(群馬県)原町飛行場着陸復行中に失速不時着し、殉職。
「双襲」とは、陸軍二式復座戦闘機「屠龍」を対艦襲撃機として使用した機種。戦争末期には多くが特攻に使用された。
○陸軍邀撃機「鐘馗」墜落事件
十九年十月、陸軍二式単座単発戦闘機「鐘馗」が、原町飛行場に急遽着陸して来た。首都圏の防空迎撃基地から発進し、攻撃した直後に離脱したものの、位置を失って誤って指定された水戸の飛行場を見失い、原町まで飛来したものだった。給油して離陸後、エンジン事故で墜落。憲兵分隊も状況の検分のため出動した。
一式戦闘機「隼」は飛行66戦隊の30機が原町飛行場に所属していたが、二式戦闘機はない。この機種は高高度から帝都に侵入して日本の中枢を壊滅する戦略爆撃機B29を阻止するため首都防衛用に配備された迎撃戦闘機で、当時は邀撃機といった。急角度で発進し、短時間で高高度まに達し、一撃離脱する戦法に特化しているため、空中戦の格闘技を必要としない。重量が重く特にエンジンが巨大で高出力。俗にいうずんぐりむっくり型の不安定な体型である。首都圏の防衛飛行場から発進し、首都周辺に設けられた着陸用の滑走路としてバックアップに水戸飛行場が指定されてあった。
二式戦闘機は、短距離走者のごとく筋肉隆々たる短躯の肉体に巨大なエンジンを積んでいる割には、速度アップのためと接近射撃時の命中率を高めるために尾翼を敢えて小さくして操縦の安定性を攻撃力の犠牲にした。短時間で緊急発進し高高度に達するために発進時の仰角が大きいので出力の大きさのためすべてを犠牲にした設計で操縦が不安定。優美な姿で操縦性にすぐれた空中戦の格闘技にすぐれて小回りの利く海軍のゼロ戦や陸軍の隼などの名機と呼ばれた戦闘機に比較すると、まったく正反対の設計思想で作られた迎撃専門の局地戦闘機である。この危険な飛行機について、水戸飛行場などでは「鐘馗には、若いもんは乗せるな」と言っていたほどだった。
案の定、原町航空隊の隼という通常航空機用のガソリンは、二式戦闘機の馬力の違うエンジンでは、きわめて点火調節が困難だった。あの事故はそのためのバックファイヤーによる失速状態での墜落だったのである。
小澤芳明・当時相馬農学校3年16歳の回想。
昭和十九年十一月、原町の飛行場にいた一式戦闘機「隼」が、訓練中、南から北に向けて離陸しようとした時、滑走距離が短かったためか、エンジン不調のためか、高度がとれずに赤芝山に車輪をぶつけてバランスを崩して不時着した。
「昭和十九年十二月、陸軍飛行場で、隼の尾輪を改修している時に空襲があった」と、慰霊顕彰会の座談会を引用する形で「大甕従軍記」に記事が載っている。
昭和二十年
○一式戦闘機「隼」の空中接触事故
二十年一月、一式戦闘機二機が空中衝突事故を起した。
小澤芳明の回想。(原町市史基礎資料)
一月、掩体壕作りの日課を終えて相農に帰る途中、飛行機の事故を目撃した。原町の上空で一式戦闘機「隼」2機が空中戦の練習中、あまり接近しぐぎて、一機が僚機の垂直尾翼に接触して破損させた。破損された機は、電力会社の裏の水田に墜落し、搭乗員は落下傘で高平小学校前の桑畑に無事着地した。接触した方の機は、プロペラに少し損傷があったが、無事飛行場に戻った。
後で墜落現場に行って見たところ、水田には水がなかったのに、主翼からエンジンの前は完全に土に埋もれていた。
この事故は、憲兵隊員も目撃している。小林修造が出張から原町駅に帰ってきた時の回想。
中村町の徴兵検査場取締りの任務を終了して帰隊の途中、原町駅ホームに降りたその時、北方の空に二機の飛行機が異常に接近するのを見ました。その瞬間空中衝突し、落下傘がぱっと開いて降りてゆくのを見ました。
分隊に帰りましたら、その飛行機は町内に墜落したとのことでした。現場取締りに行くように命じられ、現場に行きました。エンジン部分と胴体は西の川原(現在は西町)に。翼の部分は伊出の内(現在は小川町)の田の中に落ちていました。
しばらくして一人の将校が飛行場の自動車に乗せられて着きました。墜落した飛行機の乗員で教官だったそうです。衝突した他の一機は無事で、乗員は訓練生です。
八牧美喜子(旧姓加藤)はこの事故を日記に記録している。
一月二十日。今日、戦闘演習中の隼が空中接触する。はじめてあった事故。落下傘で降りてゆく人の影、青い空にはっきり見える。折角良く開いた落下傘がだだんだん海の方に流されてゆく。あんなにはっきり見上げた落下傘も飛行機も見えず、真っ青な雲が流れていた。その速度が憎かった。目のまえで死ぬのを見なければならない気持ち、もう忘れられない」(「秋燕日記」より)
少年飛行学校十三期鉾田分校襲撃班合祀者記録には「中沢重蔵 原町飛行場 離陸時エンジン故障 殉職」とある。
○原町にも配備されていた最期の特攻機
本土決戦のための特攻を意味する「と号作戦」として、黒磯から岩手県後藤野、栃木県金丸原のほか陸軍神鷲特別攻撃隊204部隊は、七月二十四日に原町飛行場にも配属された。太平洋沿岸に接近する米軍艦隊に対して「しゃち作戦」と称する自爆攻撃用に陸軍特別攻撃機が準備された。
阿部喆哉の回想。「七月頃になると、原町の飛行場から飛び立つ飛行機は見られなくなった。たまたま隊内で仕事の無い時、巡察の同行を命じられ飛行場のはずれに行くと、二機ほど松林の下に特攻機があったので近寄ると、若い隊員が気安く言葉をかけてくれた事があった。(特操二期の搭乗する特別攻撃機陸軍99式軽爆撃機)
彼らの話によると、原町から飛び立つのはこれで最後になるだろうと言って、機内を見せて説明してくれた。この飛行機は飛ぶに必要な計器だけで、重量を軽くし爆薬を多く積む事、燃料は敵艦に突入するまでに必要なだけ。目標物が発見できない場合は帰ることが出来ず、結局海に落ちるしかない事であった。明日関西の飛行場に行き、敵艦に突入する命令を待つのだと言っていた。
原町憲兵分隊秘史より抜粋