昨年一月中に大阪方面の研究家から送られてきた「操縦正手簿」という操縦訓練記録のコピーを、やっと読み通して、この飛行場はどこだろうとメールで考察しあっていたのを思い出した。毎日の本人の記述に当地の天候が記録されているのを手掛かりにできないかどうか、情報を交換しあったのだ。その最後の最後に、一隅の「所管」欄に次のような記述を発見してついに判明した。
「本日を以て当教育班に於ける教育を終わる。九五式一型練習機とも矢吹飛行場ともお別れ」
つまり福島県矢吹陸軍鉾田飛行教育隊飛行場である。
双葉地方の現在の富岡町大熊町にあたる福島第一原発の場所にあった「磐城飛行場」を含めて、西白河郡矢吹町の「矢吹飛行場」と、相馬郡石神村の「原町飛行場」の三か所に陸軍の飛行場があって、昭和19年から20年にかけては、特攻隊の訓練が行われていた。
矢吹は特攻隊『陸軍振武第80隊」は編成され12人が知覧から沖縄へ出撃して肉弾攻撃の途中、全員が戦死した。
しかし、このあとも黒磯で編成されていた「95式練習機」による特攻隊も待機していた。突入予定日は8月16日。終戦が天皇の玉音放送で告知されてからも、現場の血気盛んな航空兵士たちは、武装解除の命令に従わずに特攻作戦の続行を主張する者も多く、実際に矢吹からも赤トンボと呼ばれた木製の複葉練習機による自殺特攻機は死ぬことだけのために、沿岸の原町飛行場に移動してきた。終戦というどさくさの混乱の中で、連日、文書記録はすべて破棄命令されて、作戦続行など不能状態だった。
磐城飛行場の双発機が終戦の日に、双葉の上空を旋回して、謄写版で印刷した「戦争は続行する」という伝単(ビラ)を撒いていた件で、原町憲兵分隊からは命令を受けて調査に出張して行った。
黒磯で編成されて原町で待機していた複座戦闘機「屠竜」の特攻隊もいた。パイロットは、すでに出撃命令を待つグループがおり、特攻兵器キー「剣」と言う木製爆弾飛行機要員もいた。
矢吹飛行場での95式練習機の訓練の記録が出たことで、山田純清という赤トンボ特攻要員隊長の回想録にもつながり、原町の記録のない15日、16日の空白部分にも符合する。
この赤トンボ特攻隊の名称は「皇基隊」と呼ばれており、メンバーは山田隊長以下、加賀谷、松永、五月女少尉、佐藤惟正軍曹、若山功一伍長である。八月十三日に原町飛行場に行って爆装して平沖の敵機動艦隊を攻撃との命令を受けていたのだが、八月十日の郡山・矢吹の飛行場と鉄道への米軍機動艦隊の艦載機による集中的な空襲によって中止されて状況が激変。さらに終戦の玉音放送があり、園田少尉の自決事件によって錯綜。山田隊長以下は遅れて原町へ移動したものの、終戦の混乱で、出撃とうてい無理であった。
山田の回想によれば、赤トンボ特攻隊「皇基隊」が原町飛行場に飛来したまま、なにも出来ずに矢吹飛行場に戻っていった最後のフライトは、八月末日か九月一日のことであったという。
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