https://blogs.yahoo.co.jp/takahiro992002/7864915.html
特攻隊伝説(2) 飛行第66戦隊の99式襲撃機(高山昇中尉と飯沼良一軍曹)
4月2日早朝、徳之島飛行場から飛行第66戦隊の99式襲撃機6機が、第20振武隊の2機、飛行第103戦隊の疾風2機と共に沖縄周辺艦船攻撃に向かった。この攻撃で午前5時45分から午前6時の間に、巡洋艦2隻と大型輸送船5隻を撃沈し、駆逐艦1隻に至近弾を与えたと報じられた。66戦隊では未帰還となったのは、高山昇中尉と飯沼良一軍曹、路川存損軍曹と石原一夫兵長、勝本多資軍曹と山崎殖林兵長の計3機が未帰還となった。このうち高山中尉機は任務は通常攻撃にもかかわらず、巡洋艦に突入しこれを撃沈したと、言われています。
高山中尉は朝鮮名を崔貞根といい、沖縄戦で戦死した11名の朝鮮人特攻隊員のうちの一人です。66戦隊には昭和43年11月に赴任し、翌年7月に戦隊と共にフィリピンに進出してレイテ作戦にも参加した。そして沖縄戦時には、第3中隊の先任将校として、戦隊の中核パイロットの立場にありました。
高山中尉機の突入は一緒に出撃した66戦隊第1中隊長の山崎武雄大尉、103戦隊の小川倶治郎大尉と宮本林泰大尉が確認したとされています。(註1)103戦隊の2人については不明ですが、山崎大尉は戦後の回想で高山機がこの日出撃したことすら知らなかったこと、
激しい対空砲火のため、僚機の行動や攻撃成果を確認する余裕が全くなかったと証言しています。(註2)
防衛研究所図書館に『飛行第66戦隊死没者書類綴』という資料があります。これを見ると隊員の戦死状況や誰が最後を確認したかなどが分かります。高山中尉機についてはこの資料の中の「生死不明者死亡認定書」によると、2日に出撃した田野本源二曹長と檜山光衛候補生(2人は5月16日に戦死)が体当たりを確認したとされています。ところが最初は「四月二日那覇沖輸送船攻撃ニ於テ未帰還トナル」あるだけで、特攻戦死とはなっていません。それが後に「平素ノ剛毅闊達攻撃精神充実セル言動」から特攻戦死に認定されています。
同じく2日に未帰還となった路川存損軍曹と石原一夫兵長機は、によると室野曹長と山崎大尉が同機が「体当リ艦種不詳一隻轟沈」を目撃したとなっています。(『飛行第66戦隊死没者書類綴』)ところが6月1日に作成された報告書では、最後をはっきりと確認した人はおらず、直掩機も火柱を目撃しただけで、あとは本人達の平素の性格から推定となっています。公式には特攻戦死になっていない他の隊員も、66戦隊では平素の言動を理由として次々と「体当リ攻撃ニヨリ自爆戦死ト認定」しています。
3月29日に戦死した今田義基少尉と長沢一郎伍長機も、最初は「敵大型輸送船ニ体当リ轟沈セルモノト推定」されていました。ですが山崎大尉は「今田機ハ編隊ヲ分開後「カテナ」湾敵艦船群ニ接敵中ヲ目視セルモ首里上空付近ニテ視界ヲ去ル爾後ノ行動ハ不明」と報告しており、ほかのも地上もしくは直掩機は「火柱」しか目撃していないようです。これを裏付けるように、同じ日に出撃した坪井宗一軍曹は「前下方の海面が、パアッーと燃え上がったと思ったら忽ちサッと消えてみえなくなった。(中略)今田機の確率が高いのである」(註3)と回想しています。
友軍機の最後を確認する機も速で移動する機を操作しているのですから、視認するのはほんの一瞬です。さらに米軍の激しい対空砲火を受けながらですから、じっくりと観察する余裕はとうていありません。実際に特攻攻撃を行ったかどうか「平素ノ剛毅闊達攻撃精神充実セル言動」から判断するのも分かるような気がします。通常攻撃であろうhttps://blogs.yahoo.co.jp/tomikou185/13138195.htmlhttps://blogs.yahoo.co.jp/tomikou185/13138195.htmlと特攻であろうと、米艦隊の戦闘機や対空砲火による迎撃網を突破することには変わりません。さらに通常攻撃の場合は帰還するためにもう一度迎撃網を潜り抜けなければなりません。現場の部隊指揮官としては通常攻撃による戦死でも、特攻戦死と同様に処遇したいとの思いがあったのではないのでしょうか。こうした感情が『飛行第66戦隊死没者書類綴』に表れているのではないのでしょうか。
(註1)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄・台湾硫黄島方面 陸軍航空作戦』(朝雲新聞社 1970)P439
(註2)飯尾憲士『開聞岳』(集英社 1989)P116~119
(註3)飛行第六六戦隊会事務局編『六六FR会報総集編』坪井宗一さんの手記
振武20隊の穴沢は4月12日に特攻した
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/shinbutai_hensei-004.htm