今富幸雄菅野昌敏
敗戦まぎわの特攻要員になった士官学校58期生
58期生は三月十五日卒業後、すぐ原町に赴任、一か月足らずで原町を去り満州へ発った。
空襲警報の激しくなった原町では訓練が不可能となり、満州の青山堡飛行場に向かった。
教官は57期八木武、木下栄寿両少尉。戦後になって満州で同期生、教え子達の後を追う様に亡くなった木下少尉と、四月十八日挑戦をめぐりあった事が川口少尉の日記に残っている。異郷でめぐりあったお二人、さぞ原町の噂に時を忘れたであろうが、どちらも故人となり聞くすべもない。
58期生二十名中、五名が戦死している。原町在住わずかに一か月だったが、八木、木下お二人の配慮で、二十名のこの人々も各家庭への編隊編成があった。八日の外出日、それから一度、出発前日か? そして出発の朝と三回だけの接待だったが、大変明るい、これが軍人かと思えるこのクラスの空気におどろいた。学生気分が抜けなかったのかもしれない。若者たちはどんな時代でも明るいものだと救われる思いで思い出す。
松永牛乳店 村上信 小林秀武 両名八月二十四日 牡丹江省 戦死 ソビエト戦車軍と交戦
川名芳男 田中真一 下荒磯茂
古山陶器店 古賀俊郎
山本正 八月二十四日 戦死 村上、小林とともに行動
菅野昌敏 八月二十日 自爆 満州四平省
松隈義人 高野信雄 本橋吉雄 西島早見 前島正雄
大橋 今富幸雄 八月二十日 自爆 満州東豊飛行場付近
徳富太三郎 松本芳治 八牧通泰
魚本 寺田猛 多賀正夫
四月十二日朝八時の列車だったと記憶している。関東、関西方面に家のある人は上りのこの列車にのった。お顔は忘れたが色白の背の高い、おとなしい亡き村上さんが改札口の所に立っていた事をはっきり思い出す。
そして、ホームに出ても賑やかに出発した事が日記にも書かれている。
下りは十時の列車だったので一度もどり、又、見送ったのだった。その間に貧しい朝食をさしあげたらしい。小林さんが何故下りの列車にのったのか、主人(注。八牧通泰)もわからないという。或は記憶し違いなのかもしれない。家族が台湾にいた主人のみ瀬戸屋に十五日まで残った。
ともあれ、この人々の中からも出た五名の戦没者は、敗戦の最中の悲劇として、又別の悲しみと謎につつまれたまま永遠に沈黙のまま碑に名をとどめる事になった。
p82 八牧美喜子「秋燕日記」