八牧美喜子著「いのち」白帝社 p135
昭和五十一年慰霊碑建立のあと、この手記をまとめているうちに、戦争というものを改めて考えねばならない事になった。
ある日「寺田さんが戦果をあげたかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に 私がつぶやいた。
「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったんですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
そうなのだ、戦果というのは相手を殺すということなのだ、人間である相手を・・・・。
それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。
撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子も、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止まってしまっていた人間だった。
ただ、死んで行った知人の誰彼を惜しむ思いのほかに、別の思いを浮かべたことはなかった。戦争について書く能力など私にはない、ただ事実だけを残したい。
注記 秋燕日記のあとがきに「編集をお世話くださった二上英朗さん、未整理の原稿を持ち込んだ印刷所には大変なご苦労をおかけしました。熱く御礼申し上げます」としるしてあった。
たしかに、昭和五十一年に美喜子さん宅に通って「秋燕日記」という手記をまとめる編集を手伝ったときに、彼女に忌憚のない意見を申し上げたことを覚えている。遊びに来ていた青年というのは、大学生のときの私である。
わたしの母は、祖母に連れられて太田村から原町へ昭和13年に引っ越して来た。2年生の時だったという。3年生か4年生のときに、同じクラスの隣の席どおしだったとも聞いて居る。4年生のそのころから病弱を理由に加藤美喜子さんは学校を欠席した。松永牛乳店の松永時雄社長の姪御さんという当時から有名な深窓のご令嬢で、学校に出ないでも家庭教師から勉強を教わっていたと母から聞いていた。わたしが高校、大学のころに文学好きという共通項で八牧家とは交際していた。親子ほども年齢の離れた間柄であったが、町では稀な文学派だった。