鎮魂の記録 大空に祈る

陸軍三人男が8mm映画つくる

旧原町飛行場から飛びたった特攻兵たち

特攻隊で死んでいった飛行兵や、昭和二十年の八月九日十日の原町空襲で殉職した人々の死の意義をみつめ、鎮魂のために8mm映画を作っている人たちがいる。原町市旭町の洋装店サンコウ経営者の青田信一さん(53)らがその人。

青田さんは婦人洋装店を経営するかたわら、趣味の8mm映画で「大空に祈る」( 仮題)と題して、特攻隊戦没者や空襲殉職者を鎮魂するため、いま第一巻と第二巻を撮り終え、最後の第三巻の製作に励んでいる。

青田さんは原町生まれの原町育ち。

原町に陸軍飛行場があった頃に、軍属として勤務。航空気象の分野を担当していたという。勤務上パイロットたちとの交流があったので、若くして特攻に散っていった多くの飛行兵たちと、ともに生活する時間があったわけだ。

そのため、戦後三十年以上もたっても、いまだにそれらの日々を忘れることがない。忘れるどころか、つい昨日のようにおぼえているという。

そのような気持ちをおさえきれず、自分たちの気持ちを表現しつつ、遺族にも、また地元の人々にも共感して欲しいという切願が、8mm映画という記録の形になった。

今回の映画制作の主眼は、戦争のかげで埋もれている人々にこそ光をあてて、記憶されるべく発掘しようという点にある。

特攻で死んだ飛行兵も、訓練で死んだ飛行兵も、等しく同じ心を抱いて死んでいったのであり、その死の意味には何ら変るところはない。青田さんたちの観点は、このようなものであった。

原町飛行場は、陸軍の飛行訓練の基地であったため、特攻に参加して九州、沖縄方面へ飛び立ってゆく出発点でもあった。

しかしながら、飛行訓練をしている途中に死んでいった人たちもまたいたのだ。

埋もれた人々にこそ光 慰霊碑建立の予定も

原町飛行場では主として陸軍99式襲撃機という機種が特訓に使われた。この99式襲撃機は、陸軍が対地戦のために使用していたものだが、ソビエト軍を想定して対戦車攻撃用に作られたものの、戦争の末期には最も多く特攻作戦に使われるようになったという。地上の戦車を襲撃攻撃する戦法が、そのまま敵艦にふり向けられた訳だ。

原町市本町で薬局を経営する八牧通泰さん(51)は、当時原町飛行場で、この99式襲撃機に搭乗して特攻訓練を受けていた一人である。

八牧さんは、この99式襲撃機のことを「空飛ぶ棺桶」としみじみ呼んでいる。

たとえば、特訓は熾烈で、特攻が目的だから超低空飛行や急降下などの神業的曲乗りが要求された。そんな中で特攻に参加しないまま、訓練中、小高の山にぶつかって死んだ者や、海岸の岸壁に突っ込んで死んだ者があった。海岸の岸壁を敵艦に見立て、敵艦の機銃掃射を浴びないように、海面の上すれすれのところを突っ込んで行っては、反転して練習をくりかえしているうちに、不意に隆起した浪のうねりにのまれて、よけきれずに激突して死亡したというようなケースである。それは実戦ではなかったにせよ、実戦さながらの模擬特攻であり、その技術度は最大限に要求されていたし、訓練中の飛行兵たちは、気持ちの上ではすでに特攻の中にいたと言える。

家族をたずね

この八牧さんと青田さんが四月の十日から、一週間にわたって九州の遺族のもとをたずね訪れた。

青田さんが製作した三巻の映画をたずさえて、遺族達に披露するためであった。九州では、生前の我が子が生き生きと映し出される銀幕の前で、こらえようもなくみな泣いた。そして何度も何度も銀幕の中の我が子を見ようとくりかえして映写してくれるようにとたのまれ、飽いることなく見入った。

八牧さんは昨年四月「わが家の三代」と題して、B5判50頁ほどの小冊子を自費出版した。その中で、三代目の八牧さんが、陸軍幼年学校へ入ったいきさつや、陸軍士官学校時代のことなどが書かれているが、そのあと八牧さんは原町飛行場で飛行訓練を受け、やがて満州に渡って、満州で特攻の訓練をしていた。その訓練中に終戦をむかえ、飛行機ごと内地の飛行場にのがれてきたという。

八牧さんは九州生まれで、今回の九州行きは、同時に生れ故郷の再訪でもあった。

その地で八牧さんは、八牧さんの祖父を知っているという老人にめぐり会い、また陸士時代の同級生などと再会するなど、大変有意義だったと語っている。

「旅行の前半は泣いて泣いて涙ばっかりでした。後半は自分の故郷の九州の深堀村も見てきましたし、二十年ぶりの友達とも会えましたし、本当に行ってよかったと思います」

この「大空に祈る」のナレーションは、森鎮雄さんの祝詞がはさまれる。森さんは、鹿島町柚木の神社の神主だが、八牧さんと陸士の同期生。

風化者の行為か

九州では馬鹿者のことを軽蔑して風化者(ふうけもん)と呼ぶのだそうだ。「さしずめ戦後三十年もたっている今、ああでもないこうでもないといって太平洋戦争の話題に花を咲かせ、あげくに当時の記録を映画に撮って、九州あたりまで出かけてゆくのは、よほどの風化者なんですわなあわれわれは」と、青田さんと八牧さんは笑う。

青田さんは、この映画の製作にあたって、あらためてこう語っている。

「私がこの映画を作ったのは、まず戦時中の原町の様子というものを記録して、肩身の狭い思いをしている遺族のみなさんにも、彼らの死の意義をみとめてあげたいということなんですよ」

戦没者の名を銅板に刻もう

今年の八月十五日の終戦記念日には、同市の公園墓地内に安置されている慰霊碑のかたわらに、今まで建ててあった木板の戦没者名簿を、銅板に名前を刻んで永久的なものにしようという運動を展開している。

相双新報 46号 昭和51年1976 5月25日

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