鉾田市史 通史編下巻(鉾田町史編さん委員会、平成十三年十月二十日発行)
P478~480
鉾田陸軍飛行学校の開設
 昭和一二年(一九三七)七月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し日中戦争が始まり、戦時体制へと突入した。一三年の張鼓峰事件、その翌年のノモンハン事件でソ連軍と戦った日本軍は、ソ連側の空軍と地上軍から激しい攻撃を受けた。ノモンハン事件では多大な人的被害を出し、日本軍は装備の遅れを露呈した。陸軍は当時の世界情勢から航空の増強を重視し、大拡充計画のもと航空要員の大量養成を急いだ。一三年に陸軍航空総監部が創設され、これまで陸軍士官学校分校にすぎなかった航空将校養成機関は、陸軍航空士官学校として独立校になった。この時期、全国各地に飛行学校が次々に建設されていった。当初、重爆撃機と軽爆撃機は同一の飛行場で訓練していたが、学生増員に伴い使用機が増し、訓練空域が狭くなり支障をきたすようになった。そこで軽爆科と重爆科の分離がはかられた。
 鉾田陸軍飛行学校は、浜松陸軍飛行学校の分校として一四年に設置された。翌年七月一〇日の軍令一六で浜松陸軍飛行学校令が改正され、同日の軍令一七によって、鉾田陸軍飛行学校は浜松陸軍飛行学校からの独立が決定した。鉾田校は軽爆、浜松校は重爆の専門校となった。こうして、一五年一二月一日、鉾田陸軍飛行学校が正式に開校した。
 飛行学校は北浦と太平洋の鹿島灘に挟まれた旧新宮村約四〇〇町歩と旧上島・旧白鳥両村八〇〇町歩からなる広大な地域に設けられた。飛行場の建設は鴻池が請負い、基礎工事は地元の業者が下請けした。
 鉾田陸軍飛行学校では、軽爆撃飛行隊幹部の訓練が行われた。学校の組織は、学校本部(総務・教育・経理・衛生の各部)、整備隊、学生教育隊からなっていた。開校当初は軍人は約一〇〇人、軍属約二〇〇人であった。戦争末期には軍人約八〇〇人、軍属約三〇〇人に増員されたといわれているが、正確な資料はまったく残されていない。学生は甲種学生(航空兵科大尉)と乙種学生(航空兵科尉官)があり、各々数十人が籍をおいていた。さらに一九年七月には機上射撃の訓練をうけるため一〇〇余人が入校した。P481~482
一六年一月一五日、初代柴田校長と飛行機一五機は、多数の地元町民の出迎えを受け、鉾田校の飛行場に到着した。二日後の一七日には編隊を組んだ二三機の軽爆撃機が「鉾田町の上空をかすめて大空を圧する爆音」と共に、新設の飛行場滑走路に着陸した。二月二日には将校と工員の全員がトラックに乗り鹿島神宮に参拝。四月一三日には来賓六〇〇人が参列し開校式が挙行された。当日は飛行演習やグライダー競技があり、演芸会も催された。国民の中には差し迫った緊迫感はまだなかった。しかし、同年一二月八日、対米英宣戦布告がなされ、太平洋戦争へ突入していくことになった。
 昭和一八年に入ると二月二二日に浜松校・明野校との連合演習が行われ、指揮官鈴木秋水少佐が浜松で殉職。三月二六日には明野校四八機、鉾田校四八機による連合飛行。九月二日の日比重克陸大生の殉職に続き、九月九日には希代寿夫少佐他三名が殉職した。
鹿島灘海上では死と隣り合わせた訓練が連日行われていた。
 地上に置かれた飛行機は、爆撃を受けると直撃でなくても側面からの爆風で被害をうけ易い。そのため、爆風を遮断する土手を巡らした壕の中で飛行機を格納しておく必要がある。それが飛行機掩体壕であるが、一九年一月に、飛行機掩体壕が地元住民の勤労奉仕で造成された。六月には本土防衛のため鉾田陸軍飛行学校は鉾田教導飛行師団に編成替された。従来の学生教育に加え、敵機来襲の情報があれば直ちに出撃の体制をとることになった。一〇月二二日には、陸軍初の特別攻撃隊として岩本益臣大尉を隊長に編成された「万朶隊」が出征した。隊の名前である「万朶」は、幕末水戸藩で攘夷論を唱えた藤田東湖の『正気の歌』によるものである。
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福島県相馬郡に一五年六月に開場した原町飛行場は、一七年七月に鉾田陸軍飛行学校に移管され、鉾田陸軍飛行学校第二中隊飛行場となり、一九年五月には鉾田教導飛行師団原町飛行場と改称された。陸軍少年飛行兵第一三期生の二五人は原町飛行場、二〇数名は鉾田飛行場で訓練をうけた。鉾田に来た少年飛行兵は八月から三か月程、教育隊長であった岩本大尉から指導をうけた。岩本大尉が少年飛行兵と生前に約束した「芋を食う会」は、大尉の死後、一一月一六日に三代目校長今西六郎の自宅で行われた。
 万朶隊の特別攻撃は、地元の人々に大きな反響を巻き起こした。鹿島郡常会では「特攻隊の偉業に続けと六十機建造貯蓄運動」を展開し目標達成決議をおこなった。また鉾田国民学校では朝礼時の挨拶の言葉を従来の「~をしっかりやれ」から「~を体当たり」に改めた。万朶隊に続いて、一九年のうちに松井浩中尉を隊長に編成された八紘第五隊(鉄心隊)、山本卓美中尉を隊長に編成された八紘第八隊(戦地で丹心隊と勤皇隊に編成替)、三浦恭一中尉を隊長に編成された八紘第一一隊(戦地で進襲隊と皇魂隊に編成替)が特別攻撃隊として編成された。特攻隊の編成の中には、戦地まで赴き整備や通信の任務につく軍属も含まれていた。
 飛行学校では学生増員に伴い、新設の学生寮だけでは収容できず、一般家庭でも学生や将校を下宿させるように役場を通じて依頼した。鉾田地域は気候が温暖で、近くに湖や海もあり、食べ物は比較的恵まれていた。それゆえ、全国各地から集まっていた飛行学校関係者を地元の人々は戦時中ではあったが受け入れることができた。兵士たちは出征命令を受けてから数日で出征し、その間も自由時間は限られ帰郷できない場合が多かった。そのため下宿先の夫婦が親がわりの世話をすることもあった。
 昭和二〇年(一九四五)の二月一六日、二五日の両日、鉾田校の飛行場は米軍機から爆撃を受けて格納庫や飛行機に大きな損害をうけた。
飛行学校の関係者によってまとめられた記録によると、二〇年二月から六月までの間に鉾田飛行学校に関わる特攻隊として、振武隊四五隊(藤井一中尉を隊長に編成)、振武隊六三隊(難波晋策准尉を隊長に編成)、振武隊六四隊(渋谷健一大尉を隊長に編成)、神鷲隊二〇一隊、神鷲隊二五五隊が編成されている。出撃した兵士の多数が沖縄海上と鹿島灘東方洋上で戦死した。
二〇年七月に鉾田教導飛行師団は作戦任務の第二六飛行団と教育研究任務の第三教導飛行隊に再度編成替になった。二月の空襲後、飛行機は一部だけを鉾田に残し、他は那須・八戸・能代等の各飛行場に分散配置された。二〇年八月一五日に戦いは終わり、鉾田陸軍飛行学校は一五年一二月の開校以来四年余りで閉校となった。戦後、学校の建物は跡形もなく取り除かれ、敷地及び飛行場は畑地となった。その一部は地元の人々や長野県出身者が美原開拓として入植した。
戦後半世紀の間、岩本大尉から指導をうけた少年飛行兵一三期生と岩本夫人によって、大尉の命日に特攻隊戦死者の供養が毎年おこなわれてきた。
昭和四九年には、飛行学校関係者によって飛行学校門衛所の跡地付近に「顕彰碑」が建てられ、碑の前で毎年一〇月の第三日曜日に慰霊祭がおこなわれている。
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