出撃の命令があったのは六月七日の朝でした。「本日薄暮、第63振武隊の全機をもって沖縄に攻撃をかけよ」とのことでした。私は隊員が全員そろうににそんなに時日がかかることはないんだから、それまで待って出撃さしてくれと望みました。それはもっともだが、事態は切迫している。単独の特攻隊として可動の全機でやれと押し切られしまいました。広瀬准尉を事故で欠き、このうえ身寄りのなくなる隊員を二人も出すことは断腸の思いでした。午後、飛行場で出撃の打ち合わせをしました。

 やがて出撃式が行われました。型どおり白布をかぶせた細長いテーブルに、二列に向き合って並び、恩師の酒、たばこが下になりました。その時に参謀は、沖縄到達前でも敵艦船に遭遇したら、艦船種をえらばず攻撃せよ。攻撃は必ずしも体当たりによらずとも良い。生還してまたやってくれといわれました。みんな一様によーし俺が一番槍をあげるんだと奮い立ったことです。すでに飛行場に待機中の各機のところに散っていざ始動というところで空襲警報が鳴りました。

 爆装がはずされ、数十分後に空襲解除となり再び爆装。しかし久木田機は離陸不能。

 私がもたもたしている中に各機は動き出してスタートラインにつこうとしています。陸側から海側への西向きの離陸です。私はきょうのチャンスを逸したことで最愛多数の部下と一緒に行動できぬことに言い知れぬ憤りを覚えました。発令以来きょうまで何のため苦労してきたのか、最後の決別になるであろう各機に走っていきました。日の丸の鉢巻を凛々しくしめて緊張に紅潮した隊員は「隊長殿頑張ってきます」と元気に語りました。「あきらめるな最後まで死力を尽くして戦へ、きっと帰ってくるんだぞ」激励の言葉、エンジンの轟音が響く中眼で覚悟の程を見合わす感動の一瞬でした。征く者、送る者、この中何人かは再び相みまえることのない宿命のしがらみに背引かれることを知らずに、誰一人離陸に不安定な操縦をする者もなく翼下に抱いた五百キロ爆弾の重みに耐えて堂々と出陣していきました。私は機影が次第に小さくなって行く西の空に向かって砂埃と涙で汚れきった顔のまんま茫然と立ちすくんでいました。二機離陸できなかったのは私と高田少尉機でした。」久木田隊長の回想。

神州隊6名は、この日、6月7日、特攻に散っていった。
難波晋策中尉(昭和20年6月7日出撃 以下同じ)岡山県加賀郡吉備中央町出身
後藤與二郎少尉 三重県出身
宮光男少尉 広島県出身
服部良策少尉 三重県出身
榊原吉一少尉 福島県出身
佐々木平吉少尉 徳島県出身

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