昭和7年と昭和9年の二度にわたって、福島県内の全県官民がこぞって一大寄付キャンペーンを繰り広げて陸軍と海軍に軍用機を献納する県民運動が展開し、これにしたがって各地方や業界もこぞって軍用機を陸海軍に献納する県民運動が繰り広げられた。
陸軍愛国46福島号と命名された最新鋭のドイツ設計の全金属複葉機で満州事変で最も稼働された爆撃機だった。海軍90式艦上戦闘機は、10年後には零式艦上戦闘機すなわちゼロ戦と呼ばれる名機の原型となった。
矢吹町の矢吹が原と原町のひばりが原は、相似形の地形と歴史をもつ二つの町が、時代の要請を町発展の切り札にして最後は特別攻撃隊の訓練を担当し町民がその出撃を見送ったり、米軍の本土空襲を受けて同じ悲劇的境遇をたどります。
原町では昭和11年11月6日に、県営飛行場となり、仙台第二師団航空部の陸軍91式偵察機を置き、矢吹は昭和12年5月23日に所沢飛行場から陸軍航空隊が矢吹に飛来して気球を上げて調査した。
福島民報 新鋭九機を迎えへ 矢吹ケ原の祝賀
盛んな陸軍飛行場開場式 輝やく天への首途
矢吹ケ原の陸軍飛行場開場式は、絶好の飛行日和に恵まれて二十三日午前十一時から、三千町歩に亘る大矢吹ケ原の中央で挙行された。
この日熊谷飛行学校からは、長沢飛行学校長以下四十余名出席。県から知事代理・諸橋学務部長・第二師団長代理・福島連隊区司令代理等その他郡内町村長・学校長・地方有志等参余名隣席。
飛行場の一隅に設けられた祭壇に厳かな神官の修祓から順次式を進め、長沢飛行学校長の祭文の後、祭主校長・仲西矢吹町長来賓代表の順で玉串奉奠を終わり、続いて撒餞・昇神から来賓の祝辞に移り開場式を終了。
昭和15年8月23日に熊谷飛行学校矢吹分教場が開校されました。原町にも同じく昭和15年6月30 日に熊谷飛行学校の分教場が置かれます。この当時は下士官特別操縦学生と呼ばれる兵隊たちが訓練された。
士官学校を卒業した士官が航空を選ぶと飛行学校に派遣される。熊谷は戦闘機の教程を端としているため、陸軍95中型式練習機(中練と呼んだ)から初等飛行術を身につける。世に赤とんぼと呼ばれるのは、オレンジ色に彩色されているからだ。
昭和19年秋、と号作戦と命名された特別攻撃隊が編成されて、第80振武隊が矢吹で編成されて20年4月5日に矢吹飛行場を出発。4月19日知覧基地を米軍めがけて出撃して沖縄の海に散った。彼らが乗ったのは速度の遅い陸軍99式高等練習機だった。
矢吹飛行場のあとに残ったのは赤トンボと呼ばれるこの95式練習機だけで、原町に移動したのち、太平洋沖に出現した米国艦隊に対して体当たりの肉弾攻撃が下命されていた。
山田純清少尉は特攻隊「皇基隊」の隊長として加賀谷、松永、五月女少尉、佐藤惟正軍曹、若山功一伍長を率い、中練による特攻訓練中であった。八月十三日、原町飛行場へ行き爆装して、平沖の敵機動艦隊を攻撃せよとの命令を受けていたが、十四日のグラマンによる攻撃のため出撃できず、十五日に延ばすことになったが、当日の送別会のついでに聞いた玉音放送で状況は一変した。
参謀本部からの命令のない限り、作戦続行しようと主張する者が多数を占める中、ひとり園田忠男少尉は「大命降下には絶対服従しなければならない」と一歩もゆずならなかった。
園田少尉は、かの日本海海戦で勇名をはせた東郷平八郎元帥の外孫にあたり、幼いころから武人の生きざまについての薫陶を受けていたに違いない。
平成3年の山田氏の手記によれば、次のようである。
部隊全員驚愕し茫然自失。園田少尉の強い説得のため森山隊長は私たちの出発を一時見合わす様に命じられました。
私は激しく抗議し、航空参謀本部からの命令がないかぎり我々は原町飛行場への移動を果たすべきだと森山隊長につめよりましたが、園田少尉の猛烈な反対を受け、森山隊長も私たちを出発させてくれませんでした。
園田少尉と私は当日夜おそくまで激論を戦わしましたが、園田少尉は「陛下は直ちに武装解除するように命じられているので、この大命降下には絶対服従しなければならない」と一歩も譲りませんでした。私はついに「俺は明16日は絶対に行くぞ」と彼と別れて下宿に帰りました。
翌16日早朝6時頃、園田少尉と」渡辺少尉が下宿していた乃木家の延寿堂病院の女中さんが私をたたき起こし直ぐに延寿堂へ来てくれその団さんが呼んでいるというので、とるものもとりあえず延寿堂へかけつけました。
未亡人の乃木菊子様が泣きはれた目をおさえて二階の部屋へ行けと言われました。
「山田さんと渡辺さんと渡辺さん以外は部屋へ入るなと言われいているので一人で行ってください」と言われました。
ふすまをあけてびっくりしました。
渡辺少尉がおろおろと迎えてくれましたが、園田少尉は血まみれになって床の上に横たわっていました。
渡辺が「山田、すまぬ。俺が悪かった、ちょっと寝込んでいるまに園田が切腹した」と言った。
園田少尉は自刃したのですが、腹は完全には切れておらず、彼は自らとどめをさすために病院の薬局から消毒用にショウコウ水の原液を服毒していました。
「山田、すまぬが渡辺と二人だけで私の最後をみとってもらいたい。外の人は誰も入れないでくれ」と園田少尉は落ち着いて頼んできた。
私はあたまがからっぽになったような感じからどっと涙がほとばしり出て返す言葉がなかったのですが、渡辺はおろおろするばかりなので気を取り直して、ちょうど鶴見市から来ておれた乃木先生の弟に救命をお願いしたが、ちらっと部屋を覗かれて「不可能」と言われました。
止むなく」渡辺と二人で9時まで完全に息を引き取るまで、お世話させてもらいました。終り頃は筆談で園田少尉の返事は笑顔かしぶい顔かでYES NOを判断するだけでした。
遺言もないといい、延寿堂と、渡辺 と私に遺言がありました。
軍刀は祖父東郷平八郎天師家からのものなので、母に返納してくれ。紫色のマフラーは、宮内庁からいただいたものなのでえ母を通じて返納してほしいといっていました。
私には大命は決定したのだ、もう武器は取ってはいけない。くれぐれも軽挙妄動してはならない、森山隊長を援助して整斉たる復員業務に就けと忠告の遺言でした。
特攻隊随行記 語り 大沼定雄整備員 文 渡辺正弘
桜がちらほら咲き出す四月五日、大勢の町民に見送られ結集地である知覧飛行場へ向かって飛び立った。離陸直後、中の一機が東へ上昇したかと思うと、見送りの人だかりがしている飛行場を根差して急降下した。平木軍曹の機であった。皆に覚悟の程と勇姿を見せたかったのだろう。
特攻用飛行機は急降下して敵艦に体当たりしやすくするため、後部座席を取りはずすなどの改造が行われ、できるだけ前部が重くなる構造になっていた。
十二人の特攻機に六人の整備員が乗り組んだ。当時操縦者ばかりでなく整備員も不足していたのだろうか。
大沼定雄整備員は当時十六歳、杉戸隊長のしんがりをつとめる平木曹長の機に乗り組んだ。両翼には大友勉少尉(二十歳)と、中似野鉄一少尉(十九歳)がいた。
離陸した十二機は、最初の目的地熊谷飛行学校本校へ向かった。
いよいよ関門海峡を超えて熊本県の飛行場を経て、特高の基地知覧飛行場へ到着したのは、九州では葉桜の季節四月十八日であった。
両翼の大友、中村の機は茶目っ気たっぷりにここまで飛んできた。上になったり下になったり、すぐわきに寄って舌を出したりおどけてみたりで、とてもこれから特攻で敵艦に体当たりし死んでゆく身とは思えず、いたずら盛りの子供の様であった。
整備員は四月二十二日の特攻の日を待たずして四月二十日鉄路で矢吹へ向かった。
大沼整備員の印象とは違って、山田純清少尉はこう書き記している。
私は昭和20年2月下館飛行場から杉戸勝平少尉、小川少尉、平木軍曹と共に矢吹教育隊へ転属してまいりました。間もなく杉戸少尉の振武隊特攻隊の2番機を拝命し、高練にて特攻攻撃訓練に励みましたが、4月の出撃のための鹿屋進出の際、前日にこの隊からはずされて私の替わり平木軍曹が出撃されて行かれました。
杉戸隊が矢吹飛行場出発時、平戸軍曹が「私は韓国人であるので日本敗戦後は韓国は独立して、韓国空軍の将校となる事が約束されている。日本のために死にに行くの不本意だ。山田は卑怯な奴だ。森山隊長に取り入って延命工作をした」等と山田をののしりかかって、泣き泣き離陸して行った事を憶えています。
その後すぐに私は次の特攻隊長を拝命し、加賀谷、松永、五月女少尉、佐藤惟正軍曹、若山功一伍長を部下にいただき今度は中練による特攻編成となり、特攻訓練に励みました。
8月末、加藤少将が来られて原町飛行場に残留していた全軍人を集めて「帝国はアメリカに負けたのだ。天皇陛下は城下の命を誓われた。今後は武器を棄て速やかに復員せよ」と命令を下されました。
我々の隊も8月の末日か9月初旬だったか忘れましたが、最後のフライトとして原町から矢吹へ飛んで帰り復員することになりました。