2003年8月15日のTUFテレビユー福島放送「ニュースの森」で放送された。
矢吹飛行場の振武80隊の愛称は、語り継がれていない。
しかも、放送されたのはじつは8月16日予定の待機特攻隊であって、実現しなかった「赤トンボ」特攻のことだった。
当時の特攻兵担当整備員大沼定雄さんが番組の主人公としてすべてを語るという内容になっている。放送当時74歳。
昭和25年当時には22歳だった。終戦から五年後に、彼の思いを筆記していた原稿が残され、彼自身の思いを語る番組なので、特攻隊に関する情報はほとんどなかった。
特攻隊随行記 語り 大沼定雄整備員 文 渡辺正弘
桜がちらほら咲き出す四月五日、大勢の町民に見送られ結集地である知覧飛行場へ向かって飛び立った。離陸直後、中の一機が東へ上昇したかと思うと、見送りの人だかりがしている飛行場を根差して急降下した。平木軍曹の機であった。皆に覚悟の程と勇姿を見せたかったのだろう。
特攻用飛行機は急降下して敵艦に体当たりしやすくするため、後部座席を取りはずすなどの改造が行われ、できるだけ前部が重くなる構造になっていた。
十二人の特攻機に六人の整備員が乗り組んだ。当時操縦者ばかりでなく整備員も不足していたのだろうか。
大沼定雄整備員は当時十六歳、杉戸隊長のしんがりをつとめる平戸曹長の機に乗り組んだ。両翼には大友勉少尉(二十歳)と、中似野鉄一少尉(十九歳)がいた。
離陸した十二機は、最初の目的地熊谷飛行学校本校へ向かった。
いよいよ関門海峡を超えて熊本県の飛行場を経て、特攻の基地知覧飛行場へ到着したのは、九州では葉桜の季節四月十八日であった。
両翼の大友、中村の機は茶目っ気たっぷりにここまで飛んできた。上になったり下になったり、すぐわきに寄って舌を出したりおどけてみたりで、とてもこれから特攻で敵艦に体当たりし死んでゆく身とは思えず、いたずら盛りの子供の様であった。
整備員は四月二十二日の特攻の日を待たずして四月二十日鉄路で矢吹へ向かった。(ここまで大沼整備員の記憶)
韓国の全羅南道で生まれた李充範)이윤범)は日本名・平木義範と改名していた。平戸とあるのは平木の誤謬だろう。
大沼整備員の印象とは違って、山田純清少尉はこう書き記している。
私は昭和20年2月下館飛行場から杉戸勝平少尉、小川少尉、平木軍曹と共に矢吹教育隊へ転属してまいりました。間もなく杉戸少尉の振武隊特攻隊の2番機を拝命し、高練にて特攻攻撃訓練に励みましたが、4月の出撃のための鹿屋進出の際、前日にこの隊からはずされて私の替わり平木軍曹が出撃されて行かれました。
杉戸隊が矢吹飛行場出発時、平戸軍曹が「私は韓国人であるので日本敗戦後は韓国は独立して、韓国空軍の将校となる事が約束されている。日本のために死にに行くの不本意だ。山田は卑怯な奴だ。森山隊長に取り入って延命工作をした」等と山田をののしりかかって、泣き泣き離陸して行った事を憶えています。
その後すぐに私は次の特攻隊長を拝命し、加賀谷、松永、五月女少尉、佐藤惟正軍曹、若山功一伍長を部下にいただき今度は中練による特攻編成となり、特高訓練に励みました。
8月末、加藤少将が来られて原町飛行場に残留していた全軍人を集めて「帝国はアメリカに負けたのだ。天皇陛下は城下の命を誓われた。今後は武器を棄て速やかに復員せよ」と命令を下されました。
我々の隊も8月の末日か9月初旬だったか忘れましたが、最後のフライトとして原町から矢吹へ飛んで帰り復員することになりました。(ここまで山純清の記憶)
この赤トンボ特攻隊の愛称は「皇基隊」。
その後、高橋紀子さんという研究家が、故郷に戻って実家のそば懐石の店舗を継いで、矢吹飛行場の歴史を発掘。
これまでやりやすい原町特攻隊だけに集中していた県内の放送局に働きかけて、ようやく2016年にFTVの笹川記者が中通り担当に異動されたおかげで、矢吹特攻隊の番組が実現した。