特攻隊で死んだ下宿していた将校の悲しい思い出
旧姓大石直子・現姓飯杉
戦時中私の家には原町にあった飛行場の将校が下宿していた時がありました。私の家の他にも近所で一、二軒あったと思います。宿舎での食糧不足を補うためか、それとも家族的な生活をしてもらうための下宿か、その当時の私には深くは知りませんでした。
いつも私が朝、家を出る少し前に、その兵隊さん達もそれぞれの家を出て今の原町の四葉通りの角にあった百三商店の前で、飛行場からの迎えの車を待っていたのです。
将校さん達の並んでいる前を姉の古物のカバンを肩から掛けて下駄履きでその前を通るのがとてもいやでした。
私の家にいた人は終戦後、郷里の福井県に帰り、学校の先生になられたから良かったのですが、その人より少し前に友達になった将校さんは、やはり福井県の出身でした。
小学生だった妹が書いた慰問文が縁で、私の家にはいつでも日曜日に遊びに来られたある日、今日が最後の外出ですと、夕方には少し早い時間だったのですが遊びに来られました。
その日は夕方から夜にかけて家族全員で、いつものときより長い時間をいろいろな話をしました。しばらくおしゃべりをしたあと、ゆっくりとポケットから出された白い紙包み、その中には今日床屋さんに行って自分の髪と爪を入れて来たとのことでした。自分は間もなく特攻隊として出撃します。後には何も残りません。それでこれが私の遺髪です、と。なんとその時のおだやかな笑顔は今でも忘れる事が出来ません。
私達の家族の写真をといわれ、私も入学の頃のセーラー服の小さな写真を渡しました。それを自分の胸のポケットに入れて一緒に飛行機に乗ります、と、優しい言葉で申されました。
母は、どの方面に、と聞きましたが、これは軍機でただ南の空とだけで、日時も行く先も、どうしても知らされませんでした。あの時の寂しい思い、家中がしーんとしてしまいました。
それから一ヶ月も過ぎた頃だったか、それとももっと過ぎてからだったのか、南方の空に散った事を福井県の御遺族の方からの便りで知りました。いくら国のためといっても、あれから四十年も過ぎてしまった今でも本当に悲しく寂しい思い出なのです。
注。福井出身の特攻隊員は、東直次郎。八紘隊勤皇隊の隊員。