昭和十八年六月二日。金曜日。晴。
午前七時、広森達郎は大森を出発した。目的地は福島県原町。
(常磐線はたいくつだな)
若い広森はそう思った。
午後三時五十分。やっと列車は原ノ町駅に到着した。駅は小さいが、初印象としてはなかなかいいな、と思った。
飛行学校のトラックが待っていてくれた。低い家並みの通りを走り抜けてゆくと、心がほぐれてゆくようだった。
学校の設備は思ったより良かったし、歓待ぶりは想像以上だった。
(ありがたいな。ここでがんばらなきゃあな)
学生長は五十二期の安楽大尉という人で、
(いい人だな)
と広森は思った。
九月九日。木曜日。晴。
飛行演習中に、飯村少尉と武藤少尉の二人が住職された。
二人乗りの練習機が、隣町の小高の岡田地内の山に激突したのだ。
また、高山少尉の練習機が着陸時に機首を地面にこするという事故が起こった。
原町分教場はきわめてまとまりがよく、三か月間というもの無事故のまま演習を続けたのが、ここへきて一日に二件もの事故が発生し、しかも二名の死者を出したことが無念でたまらなかった。
飛行学生二十九名のうち、一名が欠けても手足がもぎとられたような連帯感が彼らの中にあった。半年間の無事故記録さえ夢みていたのに、つきものだ。なんという悲惨な結果だろう。
広森は、航空兵となってから、目の前で犠牲者を見たのは初めての体験であった。
不満や愚痴がこみあがってくるのは」仕方がないところだが、そんなことを考えてみてもはじまらない。このまま一心に打ち込むほかにないな、と思った。
訓練に事故はつきものだ。避けては通れない。たとえ事故で死んでしまっても、その死は無駄ではないのだ。南方戦線で戦果をあげて散った者と異なることはないのだ。
(俺は自分の晴れ舞台のことを考える以前に、陰の力を顧みるべきなのだ。
この自分の腕には、彼らの存在もかかっているのだ。地上にあっても、空中にあっても自分は彼らの分まで頑張らねばならぬ。
(飯村よ、武藤よ。嘆くな。残った二十九名の仲間が必ずや、彼らの遺志を継ぐぞ)
陸軍特別攻撃隊武克隊隊長広森達郎の日記を手掛かりに、昭和十八年の」原町飛行場を再現してみると、こんなふうになる。
「昭和史への旅」より