鈴木祥文 四十年前の特攻を顧みて (川原文治)

 昭和十九年十月下旬、教官であった岩本益臣大尉以下十二名が陸軍で初めて特別攻撃隊に編成された。99双軽が使用されて、飛行機のトップに三本の支柱で支えられた信管が突き出ている。爆弾は胴体下部に固定して取付けられ敵戦艦にぶつからないと爆発しないという異様な装置は、正に人間爆弾であり固唾を呑んで特攻機に接した。慈愛にあふれた岩本大尉と部下の万朶隊勇士を見送り、その感激の激情が特別攻撃隊へ参加の嘆願書上申となったのである。

 昭和二十年四月一日、黒磯飛行場で跳飛爆撃訓練を終り兵舎に帰ると、週番士官が急いで来て、「今朝鉾田本校からの通報で、特別攻撃隊へ命令が達せられた」ことを聞く。黒磯飛行場より双練で岸田盛夫、森高夫、私鈴木文治の三名が鉾田本校に帰校した。学校本部に申告に行くと、「即刻福島県原町分校に行き稲垣少佐より99単襲の伝習教育を受けよ」と指示された。今日まで双発襲撃機を操って戦場にゆくことを誇としていたのに単襲と聞きがっかりする。

 原町に赴く。稲垣少佐より「貴官達は双襲機の訓練を十分やっているので単襲機は何ということはない。今日と明日で十時間位自由に飛んで来い」といわれ、離陸浮揚速度と着陸接地速度を教えられる。格納庫には三機が我々を待っていた。単発機は宇都宮飛行学校卒業以来乗ったことがない。如何に簡単といっても実戦機であり多少の不安もある。三人それぞれ機を決めて搭乗する。森は鉾田に来る前に97戦と1式戦の戦闘機乗っていたので自信に満ち先頭になって離陸して行く。岸田は中々慎重である。

私は岸田に先に行くと合図して森の後に続く。レバーを全開に押し終るともう車輪が地を叩き操縦桿を引かなくても離陸している。脚固定のため引込操作もない。快翔で実に操縦性能が良く機が安定している。高度二五〇〇米をとり、左右旋廻に始まって、次に、緩操作の緩横転、上昇反転、宙返り、背面飛行、続いて、急操作の急横転、急反転等をしたが、何をやっても我ながら実にうまくできる。軍偵察機として製作された飛行機であり、このような良い飛行機で特攻にゆけることに今始めて喜びを感じる。一日目はこのようにして五時間の飛行を終る。

 二日目は三人で打ち合わせて松島湾に行き、湾内の小島を敵艦船に想定して跳飛弾攻撃訓練を実施した。この二日間をもって計一〇時間の伝習教育を終了した。

 特別休暇が出て「家郷の父兄に別れをして来い」という。喜んで上野駅に着いたが、大宮駅以降が米空軍の爆撃で破壊され列車開通の見込みがつかない。止む無く帰郷を断念して東京の親戚で過ごすことにしたが、望郷の念は絶えなかった。帰隊日が四月十日で遅刻しないように正午までに帰隊した。間もなく岸田森も帰隊した。

 隊長は渋谷中尉で少尉候補者出身の鉾田在校の方、他に、少尉二名は特別操縦見習士官出身と幹部候補生出身、下士官九名は私達少飛十三期生三名の他に乗員養成所出身の予備下士官と下士候出身で、私達三目の他は何れも面識がなかった。

 四月十日夕刻、原町分校の事務室で振武第64隊員が集まり相互に紹介された。宿舎は今夜から原町の元遊郭であった柳屋亭に変りトラックで送られた。

 日常生活は、初めの四日位は夕刻早く帰舎しできたが、四月十日ごろから専ら夜間訓練が開始された。訓練が終ると、一同揃って各地で催された慰問会場に行き、帰舎は夜十二時前後であった。翌日正午近くまで就寝し、午後三時にトラックで飛行場に行き飛行訓練するという繰り返しの毎日であった。

 飛行演習は日曜日も雨の日も続行された。毎夜松島湾に散歩している小島を敵艦船に想定しての攻撃演習で、高度四〇〇〇米~五〇〇〇米で接敵し急降下からの超低空攻撃が主で延べ140時間位であった。

 五月二十六日、第六航空軍に転属命令が達せられた。

 五月二十八日午前十時ごろ、原町飛行場を離陸し大阪の大正飛行場へ前身する。五月三十一日まで同所で待機したが、飛行演習はなかった。

 休暇の出たある日、岸田、森、私の三人で外出した。

 童貞を捨ててゆこうということで大阪の街に出た。途中で岸田が「生まれたままの清純な体で逝きたい」というので思いとどまり、街を歩き回り宿舎に帰ったことがある。その日森の父母が面会に来ていた。

 五月三十一日、大正飛行場を離陸し九州の目達原飛行場へ前進した。ここで待機するようにいわれた出撃日が近づいたことを知る。

 宿舎は近くのお寺さんが割当てられた。目達原に九日位いたが、連日婦人会や各地区名士の方々の慰問激励の招待が続いた。

 我々より後に到着した特攻各隊が続々と離陸して知覧に前進していくのに、我々には前進命令が達せられない。不思議に思って聞くと、「六航軍特攻部隊中の清栄のため待機させられているらしい」との話であった。

 六月九日、鹿児島県万世飛行場へ前進命令が下った。梅雨に入り天候不順である。いよいよ最後の時が来て我等の出番である。夕方目達原飛行場を離陸し薄暮に万世飛行場に着陸した。宿舎は加世田の飛龍荘という大きい立派な旅館で、迎えのトラックで行くと美人の女中さんが多勢いたのに驚いた。

 六月十日夜、出撃命令が出たことを聞く。出発は明十一日夜間攻撃らしい。作戦指揮所に午後二時集合である。

 今生における最後の一夜である。木の香りのする新しい風呂に入る。この風呂に入って逝ったであろう特攻隊員の先輩諸氏を思い我が心中を想うが不思議に平静である。死に対しての恐怖は全く感じない。遠い所へ初めて行く遠足の前夜のようである。怖いのではなかろうかなかろうか激突のとき痛いのではなかろうかと心に問うて見たが全く反応がない。美人の女中さんに背を流してもらい感謝する。

 夕食も終り時が刻々と過ぎる。落ちつかないが父宛に葉書を書く、「いよいよ征く時が来ました。明日の今頃は沖縄です。大きな奴に見事命中出来ますように祈っています。さよならさよなら」という内容であった。辞世の句もまとまらずじまいで、他の人々にも便りを出せなかった。落ち着かないのは心の動揺ではなく、書き残したい多くを何から先に書こうか、恥かしくないものを書きたいと考えていたために落ち着けず書けなかった。

 六月十一日早朝目がさめる。今夜の攻撃に反撃の銃弾をくぐりぬけて急降下より水平超低空に到達できればよいがと神に念ずる。あとは操縦棹を前に押して目を閉じればよい。朝食後宿舎前で町の写真屋に写真を撮ってもらう。昼食後迎えに来たトラックに乗り厄介になった山下さん夫妻や女中さん挨拶をして飛行場に向う。

 作戦本部で次の敵状と命令をうける。

 「今朝の司偵機報告では、沖縄の天候雨。敵迎撃戦闘機は奄美大島前面に三梯団で、一五〇〇米~二〇〇〇米と、三〇〇〇米に、四〇〇〇~四五〇〇米にいるので直進は不可能である。万世より草垣島上空に出て進路をかえ、台湾の手前を左旋廻し沖縄の中城湾と嘉手納湾の敵艦船を攻撃する。任務分担は一小隊と二小隊は中城湾、三小隊は嘉手納湾、出発は十七時に一小隊、以後十分毎の距離をとって二小隊、三小隊の順序、編成は一小隊長渋谷大尉僚機岸田伍長一小隊二分隊長橘軍曹僚機鈴木伍長、二小隊長稲垣少尉以下四名、三小隊長巽少尉僚機森伍長と加藤伍長」

 というものであった。

 横田伍長機は故障のため出撃中止となった。

 次に全員で気象班に行く。班長の中尉さんが気象図を示して、「低気圧の現在地沖縄で雨、雲高三〇〇米、視界一〇〇〇米以下」等の説明を聞く。実に最悪の気象状況に加えて夜間である。

 気象班を出て隊長を囲む。隊長より「お前達も私も空母や戦艦に体当たりすることを夢見て来たが、艦船を選別せずに目に入った船に突込むこと。輸送船でも米兵が何千人と乗っており、或いは飛行機を満載しているのがあると思う。迷うと目的が達成できないことがあるからだ」と訓示された。

 その後、岸田、森、私の三人で語り合う。話の内容は「昨日まで全機が一緒に出撃できるものと思っていたが、小隊別の出発となってしまった。森が先に突入するが、私達三人は死後万世飛行場に霊魂が集合し揃って京都まで行こう。岸田は京都で別れ郷里へ、次に米原からは、鈴木が郷里の石川県へ、森が郷里の愛知県へと別れてそれぞれの家へ帰ろう。六月二十日正午には靖国神社の大村益次郎銅像前に集合を約束した」というものであった。

 死を数時間後にして淡々とした心境であったが、これは東航校以来培われた忠君愛国や海ゆかばの教訓があり、近況には激戦の戦隊の先輩操縦者が次々戦死し、機種改変と戦力回復のため後方地で操縦者を補充し新機種に換えて戦場に飛び立って行く。また毎日特攻体当たり攻撃が続けられ、我々の順番が来て出撃するのは当然と覚悟ができていたためと思う。

 戦場が後退して沖縄攻防戦となってしまい日本は劣勢である。戦争に勝つとは思われず、日本人全員戦死した時が終戦であろうと思っていた。しかし、我々は勝つことを信じて死んで行くだけである。死が早いか遅いかの違いである。私は盛大にもてなされて出撃できる身の幸福を感じた。

 必勝を信じ敢然と死地に赴いた友とは四十数年が過ぎ去り、私は奇遇にも長生きし齢六十才になっている。当時を顧みて最も生き甲斐をもって過ごした東航校、宇飛校、八日市、鉾田飛校の約四年間が、我が人生における最大の花道であったように思う。

 肝胆相照らし苦楽を共にした同期諸兄、余生を戦に逝きし友の冥福を祈り、相扶け励まし合い親交をもって生涯を終りたいと念願するものである。

 p540 原町戦没航空兵の記録

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