秋燕日記 P105 手記 昭和二十年のこと 矢野正
薄曇りで蒸し暑い草いきれのする真夏の午後であった。飛行機は十二機並べられ、機体は茶緑で種々の迷彩模様に染められ、胴体には山桜が画かれていた。「隼」であったろうか。この頃我々の間で、「単発単翼低翼でアンテナ高く背負ってはいるが我が陸軍の隼機」等という五七調が流行していたことなどが思い出される。
白布を掛けたテーブル、その前に一列に並んだ飛行士、飛行服に身を包み、襟に白いマフラーを巻いている。見送る軍人達、三十人ほどの見送りの人たち、この人たちは家族の方たちであったのか、或は地元の婦人会の人達であったのか、白エプロンの婦人が多かったように思う。広原の一隅に僅かの人々の見送り、子供心にも勇壮というよりは何となく寂寥の感がした。吹流し、日章旗、それに何か幟のようなものが立っていた。我々は少し離れた所に整列させられていたので、飛行士の顔などはよく見えなかったし、上官の訓示や、万歳三唱、宮城遙拝など、出陣式が行われたであろうがこれもよく判らなかった。飛行士が一斉に愛機に向い搭乗する。この情景は、鶴田浩二あたりの出演する戦争映画そのままである。一機一機轟音を立てて離陸、飛行場の上空で一周し、そのとき翼を左右に揺り動かし、順次三機編隊となり東方へ飛行し去った。見送りの人々は小旗を、我々は戦闘帽を腕の痛くなるほど振った。
当時、国の為に死ぬということについて一片の疑いも抱かなかった我々は、この決死の特攻機を目の当たりに送り、一日も早くこのように国の役に立ちたいと胸の高鳴りを禁じ得なかった。
ここを飛び立った特攻機は一旦、四国か九州の○○基地に着陸し、そこから改めて攻撃目的地まで爆弾を抱き、片道燃料で行くのだと噂されていた。終戦も近かったこととて、この兵士たちは目的を達しえたのか、或は幸いにして生き残ったのか、その成果などは勿論知る術はない。
この見送りは、二度その機会に恵まれた。(それ以前に生徒の見送りということは無かったようである)その中、一機が機体の不調でもあったのか、飛行場を一週しただけで着陸してしまった。このことについて、友人と語りながらさぞあの飛行士の心中は辛いことだろうなどと語り合った。
それから八月に入って、飛行場は爆撃を受け、我々の学校も焼失してしまった。
八月十五日、終戦の詔勅は学校の近くの先生の家の庭先で聴かされたが、放送はよく聴き取れず、全く何のことか判らなかった。笑い話のようであるが、午前中防空壕掘りの作業をしたが、午後からはこれを埋め戻す作業であった。日本が敗れたということを知ったのは帰り頃であったが、特に何の感慨も湧かなかったが、やはり子供であったと思う。帰り途、友達が日本の男子は全部米軍に殺されるかも知れないなどと話した。
終戦になっても、校舎はないし毎日実習という日課は変りなかった。八月の末頃か、今日の実習は飛行場に行くということで、原を歩いて格納庫のある所へ行った。草むらには至るところに機関砲の薬莢、薬莢をつなぐ鋼鉄製の輪が二つ連ったようなものが落ちており、又あちこちに爆弾の破裂したすり鉢状の穴があり、襲撃の激しさを物語っている。薬莢などをいくつも拾ったが、米兵に見つかると検挙されるなどというデマが流れ、捨ててしまった。飛行場には兵隊は幾人も残っていず、何となく寂しいようであった。作業は駐留軍に引き渡す物品の整理であった。私はドラム缶を転がして並べる作業に従事した。飛行機が何機か並べてあった。(終戦時、私達の学校や夜ノ森公園周辺に別の部隊も居たので、この部隊の引渡し物品も一緒に並べられていたのだろう)
格納庫の後方に木製の偽装機があり、昼休みにはこれに乗って遊んだ。三々五々、友達と連れ立っての帰り途、部落に近い森の中にバラック建ての軍の事務室があり、その前を通ると中で事務室の整理をしていた将校に呼び止められ、半分位入った赤インキの瓶と、ペン、それに缶詰を貰った。同行の友達も何かもらった。学校の別な実習に配当になった友達からはたいへんうらやましいがられた。
特攻機見送りのことは、純真な当時の私に強い印象を刻み込み。三十年後の今日なお鮮烈にそのときの情景を蘇らせることが出来るのである。
昭和四十九年九月稿
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